職場の裏に神社がある。といっても、ビルの中に組み込まれて鳥居と社だけあるような、とても小さなところ。出勤時や昼休みに前を通ると、そこで手を合わせて拝んでいる人をよく見かける。
この前、大きな仕事があった日、いつもより少し早く家を出て職場に向かっていたら、前からとなりの部署の人が歩いてきた。こちらには気づいていなかった。その人は神社の前で止まると、手を合わせて目をつぶり、しばらくじっとしていた。要するに、拝んでいた。毎朝そうしているのか、たまたま大きな仕事があったから、そうしていたのかはわからない。いずれにせよ、わたしはその行為をとても美しいものだと感じた。そして美しいものだと感じた自分に驚いた。
わたしはもうしばらく神社に拝んでいない。神社で拝むことを自分からできるだけ遠ざけておきたいとすら思っている。ナショナルなものやスピリチュアルなものは、戦争や民族浄化、テロリズムと容易に結びつく。それらは「我々」とは異なるアイデンティティをもつ人々の差別や排除に加担してきたし、利用されてもきた。当然、ナショナルなもの、スピリチュアルなものが、すなわち悪というわけではない。しかしその親和性は侮れない。知らずのうちにいつ加担し、利用されるかわからない。だからわたし自身としてはできる限り距離をとっておきたい。そう思っている。
だからこそ、その人が拝む行為を美しいと感じてしまったことに、驚いた。自分のなかから排除していたはずの行為に、心を掴まされてしまったのだった。むしろ、排除しようとしていたからこそ、自分は絶対にやらないからこそ、そのふるまいに感嘆したのかもしれない。わからない。もうしばらく考えてみたいと思う。