2024-06-23

 4、5年前から、喘息というほどでもないが、喉の違和感に悩まされている。基本的にずっとほんのちょっとだけ痒みがあり、長くしゃべろうとすると咳きこむ。たまに症状がひどくなると咳がしばらく出るのだが、それほど長く続くこともなくおさまる。前に一度病院に行ったが、なんともないと言われてしまい、以来行っていない。

 と、ここまで書いて、この話はなんだか以前にも書いたような気がしてきた。まあいいか。とにかくこんな調子なので、長くしゃべることができず、ちょっとしゃべっては咳が出るのをこらえ、独特のリズムで話すほかなくなっている。聞いている相手は、そんなに不思議に感じてないかもしれないのだが。でも時折、わたしが固まって咳をこらえていると、相手が不思議そうにわたしの顔に目を向けることがあるので、あ、早くしゃべらなければ、と思う。そうするとやっぱりいったん咳をして、喉をリセットする必要がある。ひどくはないが、困った症状ではある。

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 さて、咳が出るにもかかわらず、以前から、ポッドキャストをやってみたいなと思っているのだが、なかなか実現できていない。部屋がひとつしかないところに住んでいる(1LDKだがリビングと寝室の仕切りを全開にしてワンルームとして使っている)上に、家にいるときは基本的に同居人もいるので、録音するのがためらわれる。録音までしてなんの話をしたいのか、というと、たいして話せる話なんてないのだけれど(それはこのブログも一緒)。ただ、今日、細馬宏通さんのポッドキャスト詩の練習#51 『悪は存在しない』のこと - 詩の練習 | Podcast on Spotify)を聴いて、どうして声のメディアがいいと思うのか、少しわかったのだった。

 細馬さんによれば、声は見渡せない。たしかに、書かれたものは、ばーっと読むことができてしまうけど、声は時間の経過と共に進行するので、次になにが話されるのか、聞き手は知ることができない。『うたのしくみ』のベースにあるのもこの考え方ですよね。時間の経過とともに進行する声の裏切り方への着目。とすると、そういう裏切り方で驚かせる『悪は存在しない』の感想を声で話す、というのは、まったく理にかなったやり方である。長回しは、映画で流れる時間と現実の時間が同じ速さで流れる。映画と同じだけの時間を生きる(同じだけの時間死に近づく)。音を聴くときも、録られた音、あるいは録られつつある音と同じだけの時間を生きる(同じだけの時間死に近づく)。そういう魅力(どういう魅力?)が声のメディアにはあるのだと思う。ちょっと端折りすぎてますが。

 というわけで、そのうち声でも「ぽちぽち軒」をやりたいなと思っています。その場合はぽちぽちじゃないな。ぽつぽつ?