犬も歩けばPOWに当たる

コロッケ蕎麦はのせる派です

音名で店名を考える日

 ラーメン屋さんの「ど・みそ」はシンプルで良い店名だなと思う。「ど・味噌」という明らかな味噌感、そして「ドミソ」というおなじみの和音。ドミソはCメジャーだから、スタンダードな感じがする(Cメジャーが和音の「スタンダード」であるかどうかは一旦措く)。「おれたちが味噌ラーメンのスタンダードだ! Cメジャー! ジャジャ〜ン」みたいな感じ。

 というわけで、音名を使ったいい感じの店名をほかにつくれないか、考えてみました。

ミソラ

 まずはシンプルに。世の中に確実に存在する店名。スナック「美空」と表記されることもしばしば(その場合、美空ひばりリスペクトであることは明白)。キーボードで和音を押さえて弾いてみると、ちょっと不安定な、浮ついた感じが空っぽいかもしれない。「ミソ・ラー(メン)」だとすれば、「ど・みそ」の対抗馬にもなる。

ドレミソ

 Cadd9。スタンダードだったドミソにレが加わるだけで、非常に複雑な響きになる。「どれ? 味噌」ってことかもしれない。味噌の種類を選べるタイプのお店に違いない。

ミソシレ

 Em7の命令形、「味噌知れ」。マイナーかつセブンスの音が入ってファンキー! ザクザクと切り刻まれた具材と味噌の織りなすグルーヴ。創作味噌料理店であることはまず間違いない。

ミソラシ

 「味噌らし」いなにかを提供する店。味噌におけるカニカマ的存在を編み出した店主がいる。ミをベースにするとしたら、ラが4度の音でちょっと浮くので、そこに「らしさ」が隠れているような気がする。

ミソランド

 すべてのメニューに味噌が使われるミソランド。ここはあえてAm7の転回形という解釈をしめしてみたい。Am7ってなんか万能感あると思っているのです。「ン」はご愛嬌です。

ドラッシー

 味噌ばかりなので他も考える。スタッカートを加えてみました。ラッシーの中のラッシーを提供する店、ド・ラッシーであることは疑いようがない。ラッシーってカレー屋に行かないと飲めないので、ラッシースタンンドがあったら良いなと前々から思っています。

シレファーラ

 ファーラはイタリア語で恐怖を意味するようです。pauraなのでファゥーラって感じかも。細かいことは気にしない。「知れ、恐怖を」。ホラー小説専門の本屋の名前だと思います。Bm7♭5にふさわしい緊張感。というかマイナーセブンフラットファイブにしたくてわざわざ捻りだしました。

 色々考えてみたけどミソの汎用性が高すぎました。みなさんも思いついたらぜひ教えてください。

夏、残置物、引越し先にて

 引っ越して1週間が経った。フライパンを使って冷凍の餃子を焼き、冷凍の具に味噌とほんだしを入れれば完成する豚汁をつくるところまでようやくきたところです。ここからは本の段ボールを開けて本棚に並べたり、服の段ボールを開けてクローゼットに閉まったりする作業が残されている。なかなか骨が折れる。グキッ!

 分譲賃貸なので、前の住人かオーナーが色々と手を加えており、特に水回りにはこだわりがあったと見うけられる。洗面台がとにかく広く、その下の収納は、ある一定のところまでいくと自動で閉まる例のやつである! すげー! 初日は感動しきりだった。これってなんでうれしいんでしょうね。よくよく考えると閉まりさえすれば別になんでもいい気もしてくる。世間に騙されているのでは?

 キッチンの蛇口に前の家で使っていた浄水器を取り付けようとしたが、どうも取り付けられそうな見た目ではなかった。調べてみると、LIXILのオールインワン浄水器というもので、たしかにレバーをひねると原水→シャワー→浄水と切り替えられることがわかった。中にカートリッジが入っていて定期的に取り替えるらしい。……はて、これは一体、いつ取り替えられたものなのだ? 前の住人が残していってくれた説明書類(マメな人でよかった)を見ても、いつ替えたかはわからず。ただ、説明書類と一緒に交換カートリッジの空き袋も残されていて、これは前の住人からの「交換しましたよ」というある種のダイイングメッセージとして受けとるべきものなのかどうなのか。ミステリだったら残置物を使ったトリックとして名探偵が解決してくれるのでしょうが、そんなふうにメッセージを残すくらいなら「いついつ交換しました」と書いてほしいものである(全然関係ない話、急に思い出したんですけど、今から20年くらい前に「天国からのメッセージ」っていう、天国に行った自分から生きている自分宛にメッセージが届くみたいなサイトがありましたね。小学生くらいの自分には怖かった)。というわけで、仕方ないのですぐ取り替えることに。

 ネットで注文できるとわかったので、早速LIXILのサイトにアクセスする。エコノミー、スタンダード、ハイグレードと、カートリッジにもランクがあるらしい。除去される成分が違ってくるようである。いつも蛇口をひねって水を飲むので気休め程度に浄水器を使っていた口なので、エコノミータイプにする。定期便初回は1,000円オフのクーポンがあり6,150円だった。今後は8ヶ月ごとに交換カートリッジが送られてくるらしい。いままでは1年交換のものを使っていたので、ちょっと割高に感じる。月900円弱なのでミネラルウォーターを買うよりはよほど経済的ではあるが。

 「これ、買わないことってできないの」と同居人に言われたが、原水も浄水も結局は同じ管を通ってくる構造になっているっぽいので、買わないとすれば衛生上、蛇口ごとまるっとLIXILから乗りかえることになりそう。そんなコストはかけていられないので、交換カートリッジ定期購入の道を選んだのである。というより、これ以外に選べる道がない。引越しで浄水カートリッジのサブスクに強制加入させられるとは予想していなかった。残置物は贈与であるが、贈与には返礼がつきものであることを身をもって知った夏だったのでした(なお、3機あるエアコンも設置から10年以上経っており、全部効きが悪い。もう残置物はこりごりだよ〜)。

表面だけをなぞって何か立派なことを言った気分に浸るのはもうやめようよ(自戒をこめて)

 今日は広島に原爆が落ちた日である。職場の最寄り駅でビッグイシューを買った。駅の反対側ではたまに見かけたが、そこで売っているのは初めて見た。帰りの電車の中で読んだ。特集「非戦・平和へ。集いと対話」。表紙と巻頭インタビューはLUNA SEAのSUGIZO。国内の被災地支援だけでなくイラクやシリア、パレスチナの難民キャンプにも赴いて活動していること、また坂本龍一と親交があったことは知らなかった。

 植民地教育史を研究している京都大学の駒込武教授のインタビューが良かった。台湾と沖縄をフィールドに、対話の場を設けてきたという。少し引用します。

台湾でいう独立とは「憲法を改正し、国名を中華民国から台湾に変えること」だが、「中国と戦争になることを恐れ、住民の約7割が現状維持を望み、中国との統一を望んでいるのは1割に満たない」という。/「ただし88%の人が、台湾が独立・現状維持・統一のいずれかを住民投票で決める"自己決定権"を望んでいます。台湾では全原発の廃炉や同性婚の法制化などの賛否が住民投票で問われ、政策転換に大きな役割を果たしてきました。19年の沖縄の県民投票で、約7割が辺野古の埋め立てに反対しても無視している日本政府とは大違いです。台湾のこの直接民主主義こそが中国にとっては脅威なんです」

[香月真理子「"東アジア非武装地帯"に、国連アジア本部を置こう。台湾・沖縄・日本「本土」の人々による対話の場から——駒込武さんに聞く」『ビッグイシュー日本版』532号、2026年、15頁、太字強調は引用者による]

 これを読んで思い出したのは、水俣と福島のこと。漁村だった水俣に新幹線が通ったのはチッソがあったからだった。福島では原発で働いている人が身近にいた。政治は生活を規定する。そして生活にはさまざまな関係が網の目のように存在する。ある事柄に対する意見や立場、思いはその関係のなかから生まれてくる。だから賛成/反対といった単純な二項対立では汲み取れない背景が重要で、それを抜きにして「反対していない人もいるよね、住民にだって色んな意見があるんだからさ」などと表面だけをなぞって何か立派なことを言った気分に浸るのはもうやめようよ。むろん、自戒をこめて、ですが。

 問題は、植民地主義のしわ寄せがある特定の地域に集中しているということ。昨今、アナキズムがよく見直されているのは、そこに政治を住民の手にとりもどす方法論の蓄積があるからだと思う。

 さて、今週は引っ越しがあったため毎日がめまぐるしく、今日はついに体力の限界を迎えたのか気づいたらソファで寝落ちしていた。早くお風呂に入ってベットで寝ないと。部屋のいたるところに大量の段ボールが積み上がっている。明日も仕事?! えええ?! そんなこんなの毎日ですが、次の日曜にはフェスティバルFUKUSHIMA! 2026に行ってきます。

優生思想の問題とは、「生産性」という単一の価値で人間を評価することである

 一般社団法人日本ソーシャルワーク教育学校連盟『最新 精神保健福祉士養成講座5 精神保健福祉の原理』[中央法規出版、2021年]の18-19頁の文章があまりに良かったので書き写した。以下、段落ごとにコメントを加えながら引用してみる。太字強調は引用者によるものです。

 障害者福祉の理念を理解するうえで、まず障害者を排除する思想がなぜ正義に反しているのかを理解しよう。

 「障害者福祉の理念を理解する」には、「まず」、「障害者を排除する思想がなぜ正義に反しているのかを理解」せよと言っている。いきなりすごい。「障害者を排除する思想」は「正義に反している」。その絶対的な前提から話を始めている。

 障害者を排除する思想として、代表的なものに優生思想がある。優生思想とは、人間を遺伝的に「優れた生」と「劣った生」に分類し、「優れた生」を繁殖させ、「劣った生」の出現を抑制することで人口の質の向上を目指す思想である。この「劣った生」に障害者が分類されることから、障害者を排除する思想なのである。

 優生思想の解説。過不足なくコンパクトに説明されている。

 優生思想は、19世紀のダーウィン(Darwin, C.)が『種の起源』で示した自然淘汰説を、人間社会に当てはめたソーシャルダーウィニズムの影響を受けている。自然淘汰説とは、生物には、その性質に突然変異が起きるが、環境等によりよく適合する(優生な)性質は遺伝により種全体に広まり、適合しない(劣勢な)性質は淘汰されることで、生物が進化するというものである。しかし、これを人間社会に当てはめたとき、自然淘汰を阻害する要因があるという。それは福祉などによる人為的な援助であり、「劣った生」の生存を援助することで自然淘汰を阻害し、彼らが子どもを産むことで「劣った生」の性質が繁殖し、人類の進化を妨げているとした。そこで「劣った生」の性質を遺伝させないために、不妊手術などの施策を実施することを主張したのである。

 ここには書いてないですがソーシャルダーウィニズムを広めた背景には社会学の興隆も影響している。社会進化論のスペンサーはダーウィンを読んでそれを提唱した(余談ですがわたしはめったなことがないかぎり社会学者というものを信用していない)。

 優生思想は、自然淘汰説という科学的な言説に裏づけられており、一見すると正しい言説のように思われる。しかし、優生思想が前提とするソーシャルダーウィニズムには、明らかな誤りがある。動植物と異なり人間は環境を変えることができる点である。たとえば、移動に困難を抱える障害者であっても、バリアフリーの環境を整備すれば移動の困難は大幅に軽減する。このことは自然淘汰説とは異なり、自然が人間の「優れた生」と「劣った生」を決めることができないこと意味している。

 優生思想、ならびにソーシャルダーウィニズムへのクリティカルな反論。環境を変えることができるという視点は、人と環境の相互作用に働きかけるというソーシャルワークの基本的な姿勢にも通じます。また、この文章は障害の社会モデルを基本的な態度としているように思います。

 では、優生思想がいう「優れた生」とは、誰が決めているのであろうか。それはその社会のマジョリティである。マジョリティとは、単に数的多数であるという意味ではなく、その社会の仕組みを決める力をもつ人である。マジョリティは、自分たちに有利な性質を「優れた生」とし、それをあたかも全体の利益につながるとみなした。具体的には、資本制社会において競争力のある性質(生産性)である。その結果、優生思想は、本来遺伝学に基づいていたが、遺伝とは関係のないハンセン病者、アルコール依存症者、累犯犯罪者なども、「生産性が低い劣った生」とみなした。

 この文章、ここからのドライヴ感がすさまじいのですが、まず、マジョリティとマイノリティのあいだにある権力勾配を説明している。それはたんなる数的多数/少数の問題ではない。そしてマジョリティによる権力行使は、資本制社会を前提としている。つまり、優生思想の背後には、資本主義が深く根をおろしているということ。

 こうした優生思想の問題とは、「生産性」という単一の価値で人間を評価することである。国家の正当性は、「生産性」の有無にかかわらず、主権者である市民の生を守り、多様な生が社会に参加できるように社会の仕組みを変えることなのである。国民の価値を、優劣で序列化する考え方そのものが、人権の基盤となる個人の尊厳を損なう行為なのである。

 資本主義にもとづく単一の価値「生産性」で人間を推し量ることは、まちがっている。個人の尊厳を損なわないために社会の仕組みを変えるのが国家の仕事である、と宣言している。わたしはこの文章を読んで震えました。インクルージョンとかノーマライゼーションなどというとき、そこで資本主義の問題にまでふれられることはほとんどない。わたしたちは、資本主義的価値観をいかに相対化することができるか。資本主義と人権というのは、相容れないのだと思う。そこにちゃんと向き合わないといけない。

 これを書いているあいだにも、世界では痛ましいことが起こりすぎている。許容できないことも起こる。うんざりする。わたしとしては、できるかぎり、力のないことをめざしたい(それでも力を持ってしまわざるを得ないのだから、余計に)。無力でありつづけるためには、耳を鍛える必要がある。そうでなければ大きな声だけを聴きとってしまう。聴力の問題というよりは、聴取の態度の問題かもしれない。人をどうこうすることはできないが、おかしな仕組みを脱臼させるくらいのことはなにかしらできたらいいなと思う。

脱力すること、あるいは無力であることの力

 DJが流すビートに乗ってペンライトを持った人々がコールする。そのようすがインターネットで切り抜かれ、またたくまに拡散される。今年に入ってから、そんなことがあたりまえになりつつある。デモの参加のハードルが下がり、怒りや不満を根底にしつつも楽しさが強調される。いいことだと思う。わたし自身、そうした祝祭的なデモの現場に遭遇して、デモに対するイメージが変わった人のひとりである。集まって抗議すること、いや、たんに集まるということ自体、すでに抵抗の実践である。国家は市民が集まることを制限してきたのだから。集会の自由があるのにね。

 一方で、爆音のソニックブームに揺られ、埋もれ、群れとなることの危うさが、語られていないような気もする。強い音、強い言葉に人は惹きつけられる。長期連載のバトル漫画みたいに、強さのインフレに歯止めを効かせるのは難しい。まったく効かないわけではない、とは思う。倫理が歯止めをかけるだろう。ただ、倫理には技術が必要である。なんの技術か。弱い音、小さな音、あるいは無音を聴きとる技術である。なんか禅問答みたいになってきたな。

 わたしはぶっちゃけ暴力は交渉の戦術として使い倒せばよいと思っている。暴力とは文字どおり「暴れる力」のことで、ようするにとても強い力である。運動を発進させ、継続するには暴れる力が必要で、その力を絶やさないようにすることが大事だ。ただ、それだけだといけないなと思っていて、とても力にはならないようなだらしなさ、アホらしさ、ようするに脱力も同じくらい大事だと思う。というのも、仕事柄か性質かわからないが、わたしのまわりは基本的に不調の人ばかりだからで、不調の人がとるべきなのは暴力ではなく休むことだからである。そういう人は、がんばってデモに行くのではなく、家で寝たり甘いものを食べたりするほうがよい。

 しかしそのうえで、家で寝たり甘いものを食べたりすることが、日常生活における抵抗の戦術だって言ってもいいんじゃないかと思っている。それだって、この資本主義と新自由主義と差別と戦争のやまない世界でなんとかやっていく技芸ではないか(cf. ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』)。そういうものは、当然大きな運動にはならないし、たいして音も立てないのだが(いびきくらいはかくかもしれないが)、脱力すること、あるいは無力であることの力(とあえて書こう)が、もうすこしマシに見積もられてもいいのではないか。そして、より大事なのは、それを抵抗の実践として捉えるかどうかという、いわば観客の批評眼のようなものを養うことなんじゃないか。当然、プレイヤーも観客のひとりだから、自分の行動を批評する構えをもっていなくてはならない。

 そんなことをぐだぐだと考えていては、一向に皿洗いが終わらないとわかった23時30分であった。トホホ。もう労働はこりごりだよ〜。(アイリスアウト)

バーミヤンの冷やし中華はきゅうりじゃなくてありがたい

f:id:kawaraberei:20260720125531j:image

 暑すぎる。図書館でレポートを書くためにテキスト3冊とパソコンを持って家を出たのだが、昼ごはんを食べていないことに気づいた。このまま行くと図書館までの道中でサクッと食べられそうな場所は、駅前の松屋かサイゼリヤかデニーズ。しかし松屋は狭くて荷物の置き場がない。昼時なのでサイゼとデニーズは混んでいる可能性がある。そこで逆方向に歩き、バーミヤンに入った。ここは駅から遠いので案の定空いている。

 2人がけに座り、タブレットでメニューを見る。期間限定フェアは夏の涼麺づくし。こういうのはだいたいきゅうりがのってるんだよな。と思ったら、なんと冷やし中華の写真にきゅうりがいない。わたしはきゅうりが嫌いである。きゅうり以外にもスイカとメロンも嫌いで、全部同じ青い味がする。この話をすると、「それは本当においしいきゅうりやスイカやメロンを食べたことがないからだ」などと得意顔で諭されることがあるのだが、まわりの人々がシャクシャク、ジュパジュパ(メロン限定)と気持ちよさそうな音を立てて「これはめちゃくちゃうまい」と言っているときに食べたきゅうり、あるいはスイカ、メロンもわたしにはいつもと同じくまずかった。賢明な読者諸兄には金輪際「本当においしい〇〇を食べていない、君は人生を損している」などと軽々しく言わないでいただきたい。わたしはわたしの人生に満足している。

 さて、きゅうりの代わりに緑の彩りとして、いんげんが添えてある。いんげんは好きだ。即注文した。セットで餃子を3個つけた。ありがとうバーミヤン。

 最近はカメラを持ち歩いている。流行りのコンデジである。特に何かを撮りたいと思っているわけではないのだが、生活の記録に便利である。カメラを持っているのにいきおいあまって箸を入れて少し崩してしまったが、せっかくなので冷やし中華の写真を撮った。光の具合がちょっと暗いか。正直、わたしは写真の良し悪しがあまりよくわかっていない。ISO感度や絞り、シャッタースピードという言葉を最近覚えた。先日持ち出したとき、なぜかマニュアルに設定していたらカメラに詳しい友人にオートで良いと思いますと言われたのだが、マニュアルで撮っている。オートはいつか人類を滅ぼすと思っている。なんでも自動化すればよいということはない。たぶん、そのうちオートのよさ、手軽さに気づくと思うが、縛りがあるほうが往々にして人生は面白い。五七五だってそうでしょう。バーミヤン、冷やし中華の風あざみ。