犬も歩けばPOWに当たる

コロッケ蕎麦はのせる派です

優生思想の問題とは、「生産性」という単一の価値で人間を評価することである

 一般社団法人日本ソーシャルワーク教育学校連盟『最新 精神保健福祉士養成講座5 精神保健福祉の原理』[中央法規出版、2021年]の18-19頁の文章があまりに良かったので書き写した。以下、段落ごとにコメントを加えながら引用してみる。太字強調は引用者によるものです。

 障害者福祉の理念を理解するうえで、まず障害者を排除する思想がなぜ正義に反しているのかを理解しよう。

 「障害者福祉の理念を理解する」には、「まず」、「障害者を排除する思想がなぜ正義に反しているのかを理解」せよと言っている。いきなりすごい。「障害者を排除する思想」は「正義に反している」。その絶対的な前提から話を始めている。

 障害者を排除する思想として、代表的なものに優生思想がある。優生思想とは、人間を遺伝的に「優れた生」と「劣った生」に分類し、「優れた生」を繁殖させ、「劣った生」の出現を抑制することで人口の質の向上を目指す思想である。この「劣った生」に障害者が分類されることから、障害者を排除する思想なのである。

 優生思想の解説。過不足なくコンパクトに説明されている。

 優生思想は、19世紀のダーウィン(Darwin, C.)が『種の起源』で示した自然淘汰説を、人間社会に当てはめたソーシャルダーウィニズムの影響を受けている。自然淘汰説とは、生物には、その性質に突然変異が起きるが、環境等によりよく適合する(優生な)性質は遺伝により種全体に広まり、適合しない(劣勢な)性質は淘汰されることで、生物が進化するというものである。しかし、これを人間社会に当てはめたとき、自然淘汰を阻害する要因があるという。それは福祉などによる人為的な援助であり、「劣った生」の生存を援助することで自然淘汰を阻害し、彼らが子どもを産むことで「劣った生」の性質が繁殖し、人類の進化を妨げているとした。そこで「劣った生」の性質を遺伝させないために、不妊手術などの施策を実施することを主張したのである。

 ここには書いてないですがソーシャルダーウィニズムを広めた背景には社会学の興隆も影響している。社会進化論のスペンサーはダーウィンを読んでそれを提唱した(余談ですがわたしはめったなことがないかぎり社会学者というものを信用していない)。

 優生思想は、自然淘汰説という科学的な言説に裏づけられており、一見すると正しい言説のように思われる。しかし、優生思想が前提とするソーシャルダーウィニズムには、明らかな誤りがある。動植物と異なり人間は環境を変えることができる点である。たとえば、移動に困難を抱える障害者であっても、バリアフリーの環境を整備すれば移動の困難は大幅に軽減する。このことは自然淘汰説とは異なり、自然が人間の「優れた生」と「劣った生」を決めることができないこと意味している。

 優生思想、ならびにソーシャルダーウィニズムへのクリティカルな反論。環境を変えることができるという視点は、人と環境の相互作用に働きかけるというソーシャルワークの基本的な姿勢にも通じます。また、この文章は障害の社会モデルを基本的な態度としているように思います。

 では、優生思想がいう「優れた生」とは、誰が決めているのであろうか。それはその社会のマジョリティである。マジョリティとは、単に数的多数であるという意味ではなく、その社会の仕組みを決める力をもつ人である。マジョリティは、自分たちに有利な性質を「優れた生」とし、それをあたかも全体の利益につながるとみなした。具体的には、資本制社会において競争力のある性質(生産性)である。その結果、優生思想は、本来遺伝学に基づいていたが、遺伝とは関係のないハンセン病者、アルコール依存症者、累犯犯罪者なども、「生産性が低い劣った生」とみなした。

 この文章、ここからのドライヴ感がすさまじいのですが、まず、マジョリティとマイノリティのあいだにある権力勾配を説明している。それはたんなる数的多数/少数の問題ではない。そしてマジョリティによる権力行使は、資本制社会を前提としている。つまり、優生思想の背後には、資本主義が深く根をおろしているということ。

 こうした優生思想の問題とは、「生産性」という単一の価値で人間を評価することである。国家の正当性は、「生産性」の有無にかかわらず、主権者である市民の生を守り、多様な生が社会に参加できるように社会の仕組みを変えることなのである。国民の価値を、優劣で序列化する考え方そのものが、人権の基盤となる個人の尊厳を損なう行為なのである。

 資本主義にもとづく単一の価値「生産性」で人間を推し量ることは、まちがっている。個人の尊厳を損なわないために社会の仕組みを変えるのが国家の仕事である、と宣言している。わたしはこの文章を読んで震えました。インクルージョンとかノーマライゼーションなどというとき、そこで資本主義の問題にまでふれられることはほとんどない。わたしたちは、資本主義的価値観をいかに相対化することができるか。資本主義と人権というのは、相容れないのだと思う。そこにちゃんと向き合わないといけない。

 これを書いているあいだにも、世界では痛ましいことが起こりすぎている。許容できないことも起こる。うんざりする。わたしとしては、できるかぎり、力のないことをめざしたい(それでも力を持ってしまわざるを得ないのだから、余計に)。無力でありつづけるためには、耳を鍛える必要がある。そうでなければ大きな声だけを聴きとってしまう。聴力の問題というよりは、聴取の態度の問題かもしれない。人をどうこうすることはできないが、おかしな仕組みを脱臼させるくらいのことはなにかしらできたらいいなと思う。

脱力すること、あるいは無力であることの力

 DJが流すビートに乗ってペンライトを持った人々がコールする。そのようすがインターネットで切り抜かれ、またたくまに拡散される。今年に入ってから、そんなことがあたりまえになりつつある。デモの参加のハードルが下がり、怒りや不満を根底にしつつも楽しさが強調される。いいことだと思う。わたし自身、そうした祝祭的なデモの現場に遭遇して、デモに対するイメージが変わった人のひとりである。集まって抗議すること、いや、たんに集まるということ自体、すでに抵抗の実践である。国家は市民が集まることを制限してきたのだから。集会の自由があるのにね。

 一方で、爆音のソニックブームに揺られ、埋もれ、群れとなることの危うさが、語られていないような気もする。強い音、強い言葉に人は惹きつけられる。長期連載のバトル漫画みたいに、強さのインフレに歯止めを効かせるのは難しい。まったく効かないわけではない、とは思う。倫理が歯止めをかけるだろう。ただ、倫理には技術が必要である。なんの技術か。弱い音、小さな音、あるいは無音を聴きとる技術である。なんか禅問答みたいになってきたな。

 わたしはぶっちゃけ暴力は交渉の戦術として使い倒せばよいと思っている。暴力とは文字どおり「暴れる力」のことで、ようするにとても強い力である。運動を発進させ、継続するには暴れる力が必要で、その力を絶やさないようにすることが大事だ。ただ、それだけだといけないなと思っていて、とても力にはならないようなだらしなさ、アホらしさ、ようするに脱力も同じくらい大事だと思う。というのも、仕事柄か性質かわからないが、わたしのまわりは基本的に不調の人ばかりだからで、不調の人がとるべきなのは暴力ではなく休むことだからである。そういう人は、がんばってデモに行くのではなく、家で寝たり甘いものを食べたりするほうがよい。

 しかしそのうえで、家で寝たり甘いものを食べたりすることが、日常生活における抵抗の戦術だって言ってもいいんじゃないかと思っている。それだって、この資本主義と新自由主義と差別と戦争のやまない世界でなんとかやっていく技芸ではないか(cf. ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』)。そういうものは、当然大きな運動にはならないし、たいして音も立てないのだが(いびきくらいはかくかもしれないが)、脱力すること、あるいは無力であることの力(とあえて書こう)が、もうすこしマシに見積もられてもいいのではないか。そして、より大事なのは、それを抵抗の実践として捉えるかどうかという、いわば観客の批評眼のようなものを養うことなんじゃないか。当然、プレイヤーも観客のひとりだから、自分の行動を批評する構えをもっていなくてはならない。

 そんなことをぐだぐだと考えていては、一向に皿洗いが終わらないとわかった23時30分であった。トホホ。もう労働はこりごりだよ〜。(アイリスアウト)

バーミヤンの冷やし中華はきゅうりじゃなくてありがたい

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 暑すぎる。図書館でレポートを書くためにテキスト3冊とパソコンを持って家を出たのだが、昼ごはんを食べていないことに気づいた。このまま行くと図書館までの道中でサクッと食べられそうな場所は、駅前の松屋かサイゼリヤかデニーズ。しかし松屋は狭くて荷物の置き場がない。昼時なのでサイゼとデニーズは混んでいる可能性がある。そこで逆方向に歩き、バーミヤンに入った。ここは駅から遠いので案の定空いている。

 2人がけに座り、タブレットでメニューを見る。期間限定フェアは夏の涼麺づくし。こういうのはだいたいきゅうりがのってるんだよな。と思ったら、なんと冷やし中華の写真にきゅうりがいない。わたしはきゅうりが嫌いである。きゅうり以外にもスイカとメロンも嫌いで、全部同じ青い味がする。この話をすると、「それは本当においしいきゅうりやスイカやメロンを食べたことがないからだ」などと得意顔で諭されることがあるのだが、まわりの人々がシャクシャク、ジュパジュパ(メロン限定)と気持ちよさそうな音を立てて「これはめちゃくちゃうまい」と言っているときに食べたきゅうり、あるいはスイカ、メロンもわたしにはいつもと同じくまずかった。賢明な読者諸兄には金輪際「本当においしい〇〇を食べていない、君は人生を損している」などと軽々しく言わないでいただきたい。わたしはわたしの人生に満足している。

 さて、きゅうりの代わりに緑の彩りとして、いんげんが添えてある。いんげんは好きだ。即注文した。セットで餃子を3個つけた。ありがとうバーミヤン。

 最近はカメラを持ち歩いている。流行りのコンデジである。特に何かを撮りたいと思っているわけではないのだが、生活の記録に便利である。カメラを持っているのにいきおいあまって箸を入れて少し崩してしまったが、せっかくなので冷やし中華の写真を撮った。光の具合がちょっと暗いか。正直、わたしは写真の良し悪しがあまりよくわかっていない。ISO感度や絞り、シャッタースピードという言葉を最近覚えた。先日持ち出したとき、なぜかマニュアルに設定していたらカメラに詳しい友人にオートで良いと思いますと言われたのだが、マニュアルで撮っている。オートはいつか人類を滅ぼすと思っている。なんでも自動化すればよいということはない。たぶん、そのうちオートのよさ、手軽さに気づくと思うが、縛りがあるほうが往々にして人生は面白い。五七五だってそうでしょう。バーミヤン、冷やし中華の風あざみ。

さわやかな余韻だけを残して

 ピアニスト・作曲家の渋谷毅さんが亡くなった。渋谷さんの演奏を、ついに生で観ることはなかった。体調を崩す前までは頻繁にライブをやっていたから、何度もチャンスはあったんだけれど。あまりに残念でならない。

 一度も観れなかったのに、いちばん好きなピアニストと聴かれたら渋谷毅と即答するくらい好きだった。初めは渋さ知らズのメンバーのひとりとして知って、そのあと遡ってアルバムを聴くようになった。カーラ・ブレイを聴くようになったのも渋谷毅の影響(ちなみにわたしのハンドルネーム「かわらべれい」はここからきており、つまりわたしは渋谷毅なくしては存在していない)。

 渋谷毅のピアノは、歳を増すごとにシンプルに、やさしくなっていった。それがよくわかるのは、やはり2022年発表の『カーラ・ブレイが好き』。15年の間をあけて出たピアノソロアルバムだった。わたしはなににつけても「晩年のスタイル」が好きなのだが、いつかこういうふうに自分も弾いてみたいと思った。アルバムの最後に「通りすぎた時間」という本作唯一のオリジナル曲が収められている。「おかあさんといっしょ」の曲を数多く手がけた渋谷毅のメロディの美しさ、歌心がひと際光る珠玉の一曲で、ずっと昔から聴いてきた子守唄さながらに、聴く人とそっとしずかに共にある。

 2011年発表の川端民生とのデュオ『蝶々在中』も好きなアルバム。1998年のライブツアーの録音。フレットの上で強烈に弾かれバチバチとうなるベースと、その上をまさしく蝶のように軽やかに飛んでいくようなピアノ。これ以上ない取りあわせだと思う。このアルバムもやっぱり最後に収められた「無題」という短いソロが特に好きで、抒情的でありながらピアノのタッチがほんのすこし乾いているためかナルシシズムに陥ることなく、このまま映画のワンシーンのように風景によりそうのかと思いきやメロディが突然早送りになって唐突に終わる。さわやかな余韻だけを残して。

 こうして改めて聴いていると、きっと気取りのない素敵な人だったのだろうな、と思える。話しているのを映像で見たことはあるが、ピアノと同じようにやさしく、訥々と話していたのが印象に残っている。ライブを観に行けなかったことが本当に悔やまれる。

 帰りが遅くなったので、しぶそばで食べた。渋谷で発祥、東急線沿いに店舗があるそばチェーン。店ではいつもジャズが流れている。図らずも渋谷毅にリンクしたようだ。新作の「さばトマそば」は、さっぱりしていておいしかった。

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「名付けようのない日々にあえて名前をつけてみる友の会」入会のご案内

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 「ぽちぽち軒」改め「犬も歩けばPOWに当たる」ブログ主のかわらべです。

 先日、 「東京タワーズのニューウェイブ・ディスクジョッキー/それぞれのリスニング体験記Vol.1」というトークイベントに行ってきました。 東京タワーズのメンバーである加藤賢崇さん、中嶋勇ニさん、岸野雄一さんの幼少期〜中学生までのリスニング遍歴が主なトーク内容。3人はほぼ同い年だそう。ウルトラQに始まり特撮やアニメ、クイズ番組といった当時のテレビ番組がいかに影響力のあるものだったか。とりわけ、つのだじろう原作のアニメ『ピュンピュン丸』のデタラメさは計り知れない影響を与えたらしい。

 そういう極めて個人的な話でありながらもトークイベントとして成立しているのは、もちろんお三方がメディアに出る側の人々で話が面白いからというのもありますが、なによりトークイベントと銘打っているからではないか。形式って大事だから。

 というわけで、ブログの名前を変えてみました。で、これまでは日付をエントリのタイトルにしてましたが、それも区切りとしてわかりやすいのでやめます。形式って大事だから。

 新しいブログタイトルに入れた「POW」はラリー・グラハムの曲名、もしくはマリオブラザーズのPOWブロックを想起してたんですけど、まあなんでもいいです。響きが大事。今のところ思いついたPOWの解釈でいちばんかっこいいのは、 Poïétique of Walking。散歩のポイエティーク。サンポイエティーク。

 「散歩の詩学」ってだれか言ってる人いるかなって思って調べたら、昔こんな本が出ていたようです。

 似たようなことを考える人いっているもんだな。面白そうなので読みたい。というわけで、みなさまもご入会お待ちしています。

2026-07-08

 2022年に修士論文として大友良英さんについて書いて以来、書くものを失ってふわふわと漂っているような感覚がある。新卒で入った出版社を2週間足らずで辞めた。同居人の勧めで福祉の仕事に就いた。盆踊りってちょっと面白いかも? と思って(論文を書いていたときは、盆踊り会場に行っていなかった)自分の仕事にこじつけてオリジナル音頭をつくった。変な日記ブログを始めた。友だちとバンドを組んでみた。まあ振り返ると色々とやってはいるのだが、どこか煮えない。この煮えなさはなんなのか、と思う。

 煮えないにもかかわらず、ただ、なにかをつくりたいという気持ちはなくならないようで、仕事でもプライベートでもなんかしらつくっている。職場では頼まれてないのにチラシをいそいそと作ったり、音頭もそのひとつ。ブログは自由にかける場所がほしいと思ってやりはじめた。やりかけでずいぶん放置しているポッドキャストもある。自分が着るためのTシャツもたまにつくっている。しかし煮えてこないのは、これらが単発的なものだからか。すごく格好良いことをいうと、長編小説や長編映画をつくりたいと思う人の気持ちがわかる(すごく格好良いでしょう)。息の長さを感じていたい。深く水に潜っていたい。時間をかけて鍋をぐらぐらとさせたい。すべての脂を溶かしてスープの上に浮かべていたい。それが煮えるということなのだから。

 煮えろ煮えろ、鍋よ煮えろ。燃えろ燃えろ、炎よ燃えろ。ぐらぐらめらめらぐつぐつこんこん。闇に光を。闇鍋に灯を。