ぽちぽち軒

コロッケ蕎麦は乗せる派です

2024-10-06

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 新小岩ルノアールに初めて行った。開放的な店内は、老人会と思しきおじいさんたちで混みあい、活気がある。ここの店舗は通常のルノアールとは一味も二味も違う。わたしたちがよく知るルノアールは株式会社銀座ルノアールによって経営されているのだが、ここ新小岩店は「ルノアール会」に所属するオーナーによって経営された非直営店(ボランタリーチェーン)である。この店舗を含め、都内に6店舗あるという。それぞれ独自のメニューが展開されており、ここの売りはなんとカツDONである。カツ丼ではなくカツDONと表記するところにオーナーのこだわりをみる。

 というわけでカツDONセットで飲み物はソーダ水を注文。すぐにソーダ水が運ばれてくる。ソーダ水ってメロンソーダのことなんだ。当然、ドリンクを食前にするか食後するかなどという野暮な質問はない。しばらくして重厚なお盆にのった蓋つきの大きなお椀が運ばれてくる。蓋を開ける。湯気と一緒に立ちのぼる香ばしいかおり。スプーンで食べるらしい。一口食べると、もう後には戻れない。ごはんによく染みこんだタレの甘さと卵でとじられた肉のうまみが口いっぱいにひろがる。それをソーダ水で流しこむ。この取り合わせはすごい。カツ丼もソーダ水も、この店舗がなければこんなふうに出会わされるとは思っていなかったに違いない。ものすごい勢いで平らげてしまった。

 今後誰かに新小岩でおすすめの喫茶店を訊かれたらこう答えるだろう。「君は新小岩ルノアールに行ったことはあるか。ないなら行ってみるといい。そこに君の望むものがあるはずだ」

 食後には湯呑みに入った温かいお茶が提供された。ここだけは銀座ルノアールと同じなんだな、と思った。

2024-10-05

 職場の有志の人たちで集まって、オリジナルの音頭をつくるプロジェクトを立ち上げた。スタートは完全に自分が研究していたことの延長線上(というか趣味)で、同期を誘って盆踊り大会に行ったのがきっかけ。公私混同もいいところだが、地域福祉の仕事をしているので、それなりに理にはかなっている。

 たまに同居人を誘って盆踊りへ行くと、同居人は盆踊りへの負の感情を募らせている。同質性の高い集団による踊ったほうがいいという善良な圧力への呪いである。だから絶対に踊らない側に立つという固い意志がある。そういう気持ちになるのも無理はないと思う。盆踊りを踊って楽しむ側の人たちは、踊らにゃ損々! とごくあたりまえに思っている。

 同居人が盆踊りについて文章を書いたので、それを同期に送ったところ、同期から盆踊りは閉鎖的でないところがいい、という内容の感想が返ってきた。盆踊りは閉鎖的な社会から人を連れ出し、平和に蕩尽させる、それが良いと思っている、といったことが書かれていた。これについて、わたしとしてはすこし思うところがあったので、自分がどうして盆踊りに関心をもっているのかをあらためて整理するためにも、考えていることを書き出して返信してみた。以下はその返信の文面である。

ドン引きしてないので大丈夫です笑 熱い文章ありがとうございます!!!

急に真面目になるんですけど、自分は盆踊りに両義的な気持ちがあるんですね(真面目なので句読点を打ってみる)。輪踊りはサークルの構造だから、内側と外側ができる。そうすると内側の踊る人同士での同質性が高まって、外側のことが見えなくなっていくな、と自分でもやりながら思うところがありまして。内側の人は外側の人に「踊ったほうが楽しいよ!」「入ってみたらいけるよ!」とか言って、踊りの輪に加わってもらいたがるんですけど、外側にいる人からしたらそんなのたまったもんじゃないだろうな、と。

不登校の人に対して、学校の中にいる人が「学校に来ようよ!楽しいよ!」とか言ってるのと同じだと思うんですよね。行きたくない、あるいは行けないから学校に行ってないのに、そんなことを言われたら、ますます学校の内側にいる人を信用できなくなるだけだと思うんです。学校が合わない人には、学校とは別の、その人に合ったコミュニティがあったらいい、っていうことだと思うので。

でも、問題は、自分が内側にいる人間だってことなんですよね。内側から外側に呼びかけたら、ある程度は外側の人が振り向いてくれるかもしれないけど、限界はある。それで輪をぶち壊すしかない、そしたら内も外もなくなるから、って言ってはみるんですけど、それは理想であって現実ではないな、とも思うんですよね。その場にいて居心地の悪さを感じてしまう人は絶対にいる。そしてその人がその場から離れる自由は当然保障されなきゃいけない(一方で、そういう居心地の悪さをなんらかのしかけによって転倒できなくて、なにが福祉や、なにがアートや、と思うんですけどね)。でもとにかく、自分は内側にいてしまっているから、この場にとどまるしかない、だからある程度は諦めなきゃいけない、というのが今の自分の結論。自分のかかわる場所ですべての人を包摂しよう、受け皿になろう、なんていうのは、無理というか、傲慢すぎる。場所はいっぱいあるからいいんだ、ここだけじゃないからいいんだ、ってことでやっていきたい。その上で、ふらっと入ってくる人をしめだすような閉鎖的なコミュニティにはしたくないな、ということです。

ふらっと入ってきた人たち同士で、わーっと一時的に集まって、それで終わったらまたそれぞれの生活に戻っていく。そういう流動的で、一時的なコミュニティとして、盆踊りは面白いな、と思っています。そこに閉鎖的にならないコミュニティのあり方のヒントがあるな(でも結局閉鎖的な部分もあるよな)と思っています。あと普通に踊るのが楽しい(と自分は思ってしまう)のでやっとります。

すみません、長くなりましたが、これが自分が盆踊りに関心を持ってる理由です。まったく返信になっていませんが、そんなつもりがある、ということを共有できたらと思って述べてみました!!! リベラルを標榜するマジョリティの戯言でしかないな、と自分でも思えて痛々しいのですが……。でもとにかく、やっていくしかないので、やっていくしかないですね、「手を動かしながら考える」が今年の自分の行動原理のひとつです。というわけで、引き続きよろしくお願いします!!(何を?笑)

 なにをこんなに真剣にやってるんでしょうね。まあでもこんなことばかり考えることしかやってこなかったわけだし、こんなことばかり考えることしかできないというか、こんなことを考えるのがせめて自分にできること、という気もする。どうしてったらいいんでしょうね。とりあえず歯磨きして寝なきゃ。今日は洗濯しなかったなー。だめだめDAY。でも日中はスカートと高野寛の対バンに行きました。カフェでの弾き語り。アンコールはふたりでムーンライダース9月の海はクラゲの海」をやってた。あんなふうにギター弾いて歌えたらいいな。

2024-10-01

 同居人とペアで指輪を買った。結婚指輪の値段がする指輪。結婚はしていない。

 指輪をつけて職場に行くと、何人かの同僚から指輪について話しかけられた。買いたての指輪はピカピカしている。めざとくなくても気づく眩しさだと思う。同僚がなぜか小声で言う。

「〇〇さん、その指輪って……」

「買いました。でも結婚はしてないです」

「これからってこと?」

「いや、ふたりとも結婚しないことで意見が一致してて」

「そういうのもね、あるのよねえ。でも、おめでとうでいいってこと? おめでとうって言っていいってこと?」

 だいたい、こんな感じの会話である。左手の薬指に指輪をはめることは、祝ってしかるべきことだとされている、ということをひしひしと感じる。異性間限定のロマンティックラブイデオロギー

 指輪を買うことにしたのは、同居人に説得されたからだった。左手の薬指に指輪をはめることは、パートナーがいることの明示になる。もし余計な詮索をされそうになっても、これを見せれば一目瞭然。いわば水戸黄門の紋所である。わたしは現行の婚姻制度は廃止すべきだと思っている(婚姻制度は家父長制を温存する)ので、左手の薬指に指輪をはめたくなかった(婚姻関係にある二者が身につけるもの、という社会通念があまりにでかすぎるのがいけない)のだが、同居人の意見はもっともであり、実生活上便利なのですることにした、というのが理由のひとつ(それに、婚姻制度に反対しているけど左手の薬指に指輪をする人がいたっていいはずだ、と思い直した)。

 もうひとつの理由は、同居人と生活する覚悟(なんて書くと大袈裟だが)ができたからである。同居人はかなり衝動性が強く、かつ急な予定変更に弱い。今と決めたことは今やらないと絶対に気がすまないので、それを他人のペースで乱されると激怒する(加えて言葉の使用に長けているので人の心をグサグサとナイフで刺すような言葉をストレスがおさまるまで発しつづける。当人もこれを「発作」と呼んでいる)。一方のわたしは、超のんびりマイペースかつ予定が埋まっているとげんなりする性格である。要はふたりとも柔軟さに欠けており、わたしは同居人に振りまわされていると感じるたびに精神のキャパがオーバーしてしまい、もうマジで無理かも、とたびたび思っては心のシャッターをおろしていた。

 しかしはじめのうちはわたしが残業することにブチ切れていた同居人も(わたしが残業をすると家事負担が増える&一緒にやろうと思っていたことができなくなる=予定が崩れるため)、少しずつ自分なりのやり方でストレスの鎮め方を身につけてきている。わたしが遅いときは自分の分だけうどんを茹でてすする、など。そういう日の食事はそれぞれがそれぞれの分を用意する。たいていの物事はそういう具体的な行動によって解決される。自分を変えるのは容易ではなく、すごいことだと思う。

 わたしは同居人をユーモアにあふれた人だと思う。同居人がノリのいい音楽に合わせて変なダンスを踊っていると、わたしもそれをマネて変なダンスを踊る。それを見て笑いあったりする。洗濯物を干しているとき、パンツを両手で持って頭上に高く掲げてポーズを決めたりする。そのポーズを競いあったりする。たぶんもうだれも覚えていないSNSの投稿をずっとネタにして言いあっている。何回言っても面白いので、もう1年くらいなにかにつけて言っている。はたからみたらなんのこっちゃわからない、とても狭くて、閉じたやりとり。 そういう、いつか失われてしまうことを思うとかなしくなるような行為のてざわりによって、わたしたちは少しずつ少しずつ、やわらかくなっているのだと思う。そうしてあなたとつみかさねてきた記憶と、そうした記憶をあなたとつみかさねていくことを、わたしは大切にしていきたいと思う。それが指輪を買ったもうひとつの理由である。これからもよろしくね。

2024-09-30

 土曜日はイベントで出勤だった(バザーの売り子をやった)。今日は振休をとったがここまでの時間は通信のレポート課題で終了。2ヶ月に一度やってくる月末の〆切。17時リミット。午前中にラスト1本を書き、4本なんとか提出できた。毎回性別二元論について書いている気がする。それでよいことにする。

ソーシャルワークの過程のうち、アセスメントの意義、目的、方法、留意点について述べなさい。

 ソーシャルワークにおける「社会変革」⑴の視点の重要性はどんなに強調してもしすぎることはない。それはアセスメントにおいても同様である。「個人が抱える生活課題の背景には、それを生じさせる関係的、社会的、地域的、環境的、構造的な要因が必ずあるという認識」⑵が求められるからである。本論では社会変革をキーワードとしてアセスメントについて述べてみたい。

 ソーシャルワークの過程において、アセスメントはインテークとプランニングの間に位置づけられる。「主訴の背景にある本質的課題を詳細に把握」し、「クライエントの個別支援計画の策定」の手立てとすること⑶。これがアセスメントの目的である。しかしながら、個人の支援であっても社会環境の視点は欠かせない。そこでソーシャルワーカーは「状況の中の人」という認識やBPSモデル、システム理論、生態学的視点に立って情報収集することが求められる。またその際、ウィークネスだけでなく「ストレングス(強み、良さ、魅力、可能性)に対する気づきも重要である」⑷。「課題や問題を解決するのはあくまでその本人や家族であり、地域住民」⑸であり、「ソーシャルワーカーに求められるのは、その人が自らの生活の主体として、その人生の主人公として生き続けることを支えること」⑹だからである。直接的な支援が終わった後でも、クライエントの生活は続いていく。そのため「アセスメントは継続的に実施される」⑺必要がある。

 こうした多角的な視点によるアセスメントを支えるのが、ジェノグラムやエコマップなどのマッピングの技法である。ジェノグラムは「3世代以上の家族間の人間関係を図式化」であり、エコマップは家族のほか「関係者や関係機関、また地域の社会資源等」も含めて図式化したものである⑻。こうした技法を活用することで、課題を明確化でき、支援者とクライエント間や支援者同士で共有することもできる。しかしながら、このような技法に内在する近代家族の規範や性別二元論には留意すべきだろう。例えばジェノグラムにおいては「男性は左、女性は右に書くのが基本」⑼である。しかし関係人物がノンバイナリーである場合は、別の書き方が求められる。横山登志子は「ソーシャルワークそのものが近代社会の産物であり[中略]家族規範、ジェンダー規範と分かちがたい」と指摘し、「ジェンダー・センシティブ」な実践を行うことを提案している⑽。社会変革を掲げる以上、ソーシャルワークにはつねにすでに人権と社会正義に基づいたアプローチが求められる。であればこそ、アセスメントの方法論そのものも柔軟に変化させて然るべきだろう。「社会変革に向けた社会構造的な課題に対する働きかけは、[中略]アセスメントに基づいて導かれる」⑾のだから。

【引用文献】

⑴日本ソーシャルワーク教育学校連盟編『最新 社会福祉士養成講座 精神保健福祉士養成講座 11 ソーシャルワークの基盤と専門職[共通・社会専門]』中央法規出版、2021年、55頁。

⑵日本ソーシャルワーク教育学校連盟編『最新 社会福祉士養成講座 精神保健福祉士養成講座 11 ソーシャルワークの理論と方法[共通科目]』中央法規出版、2021年、63頁。

⑶奥村賢一「援助論としてのソーシャルワーク」横山登志子編著『社会福祉実践とは何か』放送大学教育振興会、2022年、74-75頁。

⑷前掲⑵、66頁。

⑸同上、67頁。

⑹同上、62頁。

⑺同上、73頁。

⑻同上、69頁。

⑼同上、70頁。

⑽横山登志子「ソーシャルワークジェンダー・センシティビティ~アセスメントで留意すること~」横山登志子編著『社会福祉実践とは何か』放送大学教育振興会、2022年、275頁。

⑾前掲⑵、74頁。

【参考文献】

⑴周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』集英社、2023年。

⑵宮﨑理「"LGBT”とソーシャルワークをめぐるポリティクス」横山登志子・須藤八千代・大嶋栄子編著『ジェンダーからソーシャルワークを問う』ヘウレーカ、2020年。

2024-09-25

 先日、帰りの電車の中で70代後半くらいのおばあさんが、熱心になにかのカタログのような冊子を読んでいた。気づかれないようにのぞくと、ページの上部にでっかく赤い文字で「肉食べ放題」と書いてあった。飲食店のお得なプランを紹介するガイドのようだ。その下には「のせ放題」「かけ放題」と書かれていた。これは食いしんぼう向けのページだ、と思った。おばあさんはたくさんの荷物をかかえながら、じっと座ってそのページを眺めていた。その日はなんの帰りだったのかさっぱり覚えていないのだけど、いい日であったことだけは確かである。

2024-09-19

 午前1時半。最近平日も寝る時間が遅くなっている。慢性的に睡眠不足。あいかわらず社会福祉士養成学校のレポートを書いている。寝る前に書いていたら遅くなってしまった。日記代わりにあげておく。

ミクロレベルからメゾレベル、マクロレベルにつながるソーシャルワークの特徴について述べてください。

 「個人的なことは政治的なこと」。第2派フェミニズムのスローガンであるこの言葉は、ミクロ・メゾ・マクロレベルで相関するソーシャルワーク実践の特徴をあらわしているようにも思える。本来の文脈とは少しずれるが、本稿ではこのスローガンをキーワードに私の個人的な経験を題材にしながらミクロからマクロに連なる実践の特徴を述べてみたい。

 現在の勤務先にまず契約職員として雇用された私は、就職から1年経って正規職員への登用試験を受けることになった。試験では、業務改善に向けたレポートの提出および口頭試問が課されていた。私は各申請書から男女のみの性別欄を削除する必要がある、と書いて発表した。質疑応答で、管理職のひとりがこんな感想を言った。「レポートに内面に関わる問題を書いた人は初めてだよ!」察するにそれは、好意的な反応であるようだった。私はどう返答すればいいかわからなかった。性別欄を削除することが、「内面」の問題だとは思っていなかったからである。

 私が男女のみの性別欄の削除を訴えたのは政治的な理由からだ。すなわち、男女のみの性別欄はジェンダー二元論を助長し、シスジェンダー以外のジェンダーアイデンティティをもつ人々への差別につながるからである。普段の業務を見直すなかで、ミクロレベルの実践にほぼ携わらない事務方の私にできる最低限の「社会変革」⑴はなにか、を考えた末にこれを提案することにしたのだった。ワードやエクセルで作られた様式から性別欄を設けた1行を削除すること。それがミクロレベルでは個別の相談者への不当な扱いをなくし、またそうした運用が一般的になることで、マクロレベルでは私たちが生きるこの社会の構造的な性差別が少しはマシになる(可能性がある)。いわばある種のメゾレベルの実践として、性別欄の削除はわずかかもしれないが意義がある。そう考えての提案だった。

 ところが、である。私の投げた球は空中分解し、プライバシーの配慮は大事、という穏当な提案として非政治化されて受け止められた。あのとき私は怒るべきだった。「これは内面の問題じゃない、構造的な性差別にかかわる問題なのだ」と。「内面の問題」のように扱われるミクロレベルの生活課題の背後には、必ずメゾ・マクロレベルの地域・社会の構造的な課題がある。重要なのは、「視点を広げ、その人と同じような悩みを持つ人が、他にも複数、地域のなかに存在しているということを見いだし、個別の課題を複数形としてコレクティブに(集合的に)とらえ直すこと」⑵だ。それはつまり、「個人的なこと」を「政治的なこと」として捉えることとも言えるのではないか。そう考えると、先のスローガンは、ミクロ・メゾ・マクロにつながるソーシャルワークの特徴をあらわす言葉としても有効であると思われるのである。

【引用文献】

⑴日本ソーシャルワーク教育学校連盟編『最新 社会福祉士養成講座 精神保健福祉士養成講座 11 ソーシャルワークの基盤と専門職[共通・社会専門]』中央法規出版、2021年、55頁。

⑵川島ゆり子「ソーシャルワークの固有性」横山登志子編著『社会福祉実践とは何か』放送大学教育振興会、2022年、93頁。

【参考文献】

⑴日本ソーシャルワーク教育学校連盟編『最新 社会福祉士養成講座 精神保健福祉士養成講座 12 ソーシャルワークの理論と方法[共通科目]』中央法規出版、2021年。

⑵周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』集英社、2023年。

⑶宮﨑理「"LGBT”とソーシャルワークをめぐるポリティクス」横山登志子・須藤八千代・大嶋栄子編著『ジェンダーからソーシャルワークを問う』ヘウレーカ、2020年。

2024-09-14

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 髪を切りに行き、由緒ある町中華でラーメン半チャーハンセットを食べ、家に帰り、すね毛等を剃り、自転車を磨いて空気を入れ、図書館を2館めぐり、家に帰り、シャワーを浴び、カップヌードルを食べ、社会福祉士の通信のレポートを1本書き上げた。これで今月はあと2本。日記代わりにレポートです。

社会福祉の目的

①どのような主な目的があるでしょうか。

②また、その中でも「社会生活上の基本的ニーズの充足と調整」ということが、著名な研究者によって言われ続けてきましたが、それはどのような内容でしょうか。

 韓国の哲学者であり、ノドゥル障害者夜間学校の教師である高秉權の本に、こんな一節がある。「わたしは生活保護受給者の立場で『果敢に』海外旅行を一年に二度もしてきた人びとを尊敬する。一方ではがむしゃらな生活力を尊敬し、他方では社会的権利を社会的債務へと置きかえようとする権力者たちの陰凶な陰謀に屈しないその精神を尊敬する。道徳という名前の石をぶつけられるべき存在がいるならば、それはかれらではなく、自身たちの強欲さをやめることはせずに、果敢にでしゃばって二度も海外旅行をしたと貧しい人びとの首をじりじりと締めあげる人びとと、その政府だ」⑴。この鋭い文章から、社会福祉の目的を考えてみたい。生活保護受給者が旅行することは、この日本においてもバッシングの対象になっている。2023年の「生存権を求める京都デモ」では、受給者と支援者が「たまには旅行にいきたいぞ」「たまにはウナギも食べたいぞ」と訴えた⑵。社会的スティグマへの抵抗である。

 さて、「社会福祉実践とは、一定の社会体制内にある社会福祉制度の下で、社会生活上の基本的ニーズの充足・調整が欠けることにより、社会福祉サービスの利用を必要とする人(国民大衆=労働者)の問題解決・援助を目的として、その個人・家族とそれを取り巻く環境(制度・施設などを含む)に対して、社会福祉の専門的な知識と方法と価値観を持った社会福祉従事者(代表はソーシャルワーカー・ケアワーカー)が働きかけていく行為である」⑶という。例えば、精神疾患のためフルタイムで就労できず、生活費を払えない人がいる。基本的ニーズの不充足である。そこで必要になるのが調整、すなわち富の再分配としての生活保護制度の利用である。この場合、社会福祉従事者には大きくふたつのレベルでのアプローチが求められると思われる。ひとつは当事者の生活の相談支援(ケースワーク)、もうひとつは精神疾患のある人でも十分に生活費を稼ぐことができるような、あるいは働かなくても生活できるような社会の実現に向けた働きかけ(ソーシャルアクション)である。

 では、その人が「たまには旅行に行きたい」と言った場合、それも基本的ニーズの範疇に含まれるのだろうか。生活保護スティグマを与える人ならば、「それは贅沢だ」とばっさり切るだろう。生活保護受給の如何を問わず、誰にも旅行する権利は保障されているにもかかわらず。しかしそもそもこの問題の根底にあるのは、基本的ニーズは誰が、どのように決めることなのか、ということではないか。ハートレー・ディーンは、その著書『ニーズとは何か』において、「ニーズの政治学」⑷の必要性を訴えている。社会福祉の目的もまた、国家(制度)・ソーシャルワーカー・クライエントの「闘争」⑸の場として、捉え返す必要があるだろう。

【引用文献】

⑴高秉權(影本剛訳)『黙々——聞かれなかった声とともに歩く哲学』明石書店、2023年、68頁。

⑵「京都で生存権を求めるデモ『たまにはウナギも食べたいぞ』」朝日新聞デジタル、2023年10月19日更新(https://www.asahi.com/articles/ASRBL76KNRB2PLZB007.html、2024年9月14日閲覧)。

秋山智久社会福祉の思想入門——なぜ「人」を助けるのか』ミネルヴァ書房、2016年、107頁。

ハートレー・ディーン(福島正博訳)『ニーズとは何か』日本経済評論社、2012年、269頁。

⑸副田義也編『シリーズ福祉社会学2 闘争性の福祉社会学——ドラマトゥルギーとして』東京大学出版会、2013年。

【参考文献】

立岩真也・齊藤拓『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』青土社、2010年。

フレデリック・G・リーマー(秋山智久監訳)『ソーシャルワークの哲学的基盤——理論・思想・価値・倫理』明石書店、2020年。

⑶「<コラム 筆洗>海外渡航の自由は憲法22条2項が保障する。何人も、外国に移…」東京新聞  TOKYO Web、2024年5月3日更新(https://www.tokyo-np.co.jp/article/324935、2024年9月14日閲覧)。

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