犬も歩けばPOWに当たる

コロッケ蕎麦はのせる派です

アラサーは集まりにくい

 わたしが一応主宰している初心者バンド・Penguin Stepsはひとりが参加を休止(LINEグループから脱退、個人的にLINEはつながっている)するとほぼ同時に、ボーカルをやってくれるという友人が現れた。ものの、活動頻度は減っている。

 みんな生活状況が変わって数年前よりも集まりにくくなった(そもそも全員そこまでのやる気があるわけでもなく)。あとはいつも公営の音楽室を借りていたのだが、安さに気づく人が増えたのか最近は予約争奪戦で、深夜0時ぴったりにサイトにログインしないと2ヶ月後の予約が取れない。かといって音楽スタジオを借りるわけでもなく、細々とやっている。

 あたらしく入ってくれた人は女性ボーカル。せっかくなので歌ってもらえる曲をオリジナルで作れたらな、と以前から思っていて、昨日、同居人におすすめされたYUKIの曲を聴いていたら、深夜に突然スイッチが入って歌とメロディができました。

 今年のお正月にその人も含めた4人でミッフィーの1000ピースパズルをやって、悪戦苦闘した思い出から。その人の家でやったので、糊づけして持って帰るのは緊張感があった。楽しかったな。それでは聴いてください。「パズル」。

on.soundcloud.com

amazonで買ったパズルを
あなたと一緒にするよ
開けないで2年が経った
嵐の予報の朝に

amazonで買ったパズルは
1000ピースあるっていうよ
あなたは飽きっぽいから
ケーキもどうぞ

happy birthday to you
happy birthday to you

欠けないように探しても
足りない 空を結ぶ魔法
明日がわかっても
届くように手を伸ばすよ
it's a piece of cake with you

amazonで買ったパズルは
意外とわたしが飽きた
あなたはラストピースを
どうぞとくれた

happy birthday to you
happy birthday to you

解く鍵を間違えて
護る灯を失っても
あなたといることを
選ぶ魔法を唱えるよ
it's a piece of cake with you

 amazonのCMみたいだな……と思いつつ、割と気に入っている。引越してからデスクを置いている部屋をまったく片付けず倉庫にしているので、録音と楽譜づくりはいつになるのか。いつかできたらいいなと思う。体調が戻ってきたので、今日は外に出かけたい。精神保健福祉士の今月末の〆切のレポート2本はまだ0文字。精進。

宮沢和史のトーク付きライブに行った

 仕事の関係で宮沢和史のトークセッション&ミニライブへ。わたしは福祉の業界なので、仕事の関係で、というのが不思議である。

 沖縄での活動のことを聞かれた宮沢さんは、5分ほどと短いトークセッションの中で、こう話した。「沖縄の人から色々と意見を聞かれることもあるが、沖縄のことは沖縄の人が決めるというスタンス。先日の知事選では、基地問題から沖縄を守ってきたデニーさんが敗れ、容認する立場の古謝さんが当選した。これは沖縄が民意として選んだ結果。そうなった以上は応援していく」。大意としてはこのような話だった(細かいニュアンスや言葉選びも大事だと思うが、あいにく当日のわたしは体調が悪く少しぼーっとしていた)。

 沖縄のことは沖縄の人が決める。宮沢さんは、山梨県出身で、(おそらく)東京に居を構えながら、沖縄でのさまざまな活動にコミットしている。町村会長や行政にも知り合いがいるはず。その政治的な立場はさまざまであろう。さまざまな人々との関係を保ちつつ、円滑に活動するための位置どりというのは、結構難しい。それゆえのスタンスの表明、ということだろう。

 ただ、そのあとで、三線の原材料のひとつである琉球黒檀の植林活動(くるちの杜100年プロジェクト in 読谷)について聞かれ、こんなことも話していた。「このところは、今さえよければ、自分さえよければ、という考え方が支配的になっている。琉球黒檀は、今から植えて100年後に三線になる。沖縄民謡を歌い継ぐには、三線が必要で、それには琉球黒檀がなくてはならない。100年、200年後の子どもたちが沖縄民謡を学ぶことができるように、と思って取り組んでいる」(こちらも大意)。

 「沖縄のことは沖縄の人が決める」ということと、「沖縄の未来のために活動する」ということ。宮沢和史は、このふたつの考えを両立させている。たとえ今、沖縄への関わりが薄いように感じている人であったとしても(日本に住んでいる以上、沖縄への関わりが薄いということはありえないのだが)、100年後には関係する誰かが沖縄で学んでいるかもしれない、仕事をしているかもしれない、住んでいるかもしれない、という想像力。なんだか小学生の感想文みたいだな。

 とはいえ、わたしは前から宮沢さんの活動に関心をもっていて、それは当事者(出身・文化的バックグラウンド・居住地)ではないながらも、積極的に別の地域に関わっていたからだ。沖縄に限らず、ブラジル(バイーア)やキューバ、ウクライナなどの音楽や言語も自身の作品に取り入れている。ほかの文化に根強い表現を取り入れるときには常に、カルチュラル・アプロプリエーションの問題が横たわっているが、宮沢さんにはそうした批判がなされているようにはあまり感じない(わたしが感じていないだけで、本当はそんなことはないのかもしれないが)。それは、単純に音楽だけをなぞるのではなく、それぞれの文化への理解と啓発を促す別の活動にも取り組んでいるからなのか。

 以前から、そんなことが気になっていたので、今回たまたま話を聞けてよかった。何か、その明確な答えが得られたというわけではないけれども。なお、昨今のパリをはじめとするヨーロッパでのデモについては、「暴動」と言い切り、略奪や破壊行為を若い人の所業として非難していた。そして、あれが「人間の本性」で、だから法律などのルールが存在する、と続けた。これについては、ヒューマニストすぎる、と思った。略奪や破壊行為によって負傷者が出るのは望ましくないにせよ、それは警官の暴力に抵抗する手段であり、また市場価値を無効化し、資本主義へのアンチを示す戦術でもある。いわば資本主義を破壊する行為なので、資本主義社会にとってみれば、それが「暴動」であることは間違いないというか、当然である。ある暴力行為を批評するならば、それがどのような背景において、何に対して、誰によって、何を示すために、なされるものなのかということが重要であるとわたしは思う(まあ、もし今述べたようなかたちである種の暴力への理解を福祉や行政関係者の前で話したとしたら、それはそれで驚く)。

 ミニライブは、アコギ、三線の弾き語りに鬼武みゆきさんのピアノを加えたデュオ。1曲ごとに曲にこめた思いを話していた。歌がうまかった。会場は、マイナーなイベントかつ広報もあまりしてないせいか、半分くらいの入りだったが、宮沢さんの追っかけ的なおばちゃんファンが客席の多数を占めていたように思われる。ファン同士のネットワークがあるのか、離れた席の人と挨拶していたし、わたしの両隣の人も定番の振付けみたいなのをしながら演奏を聴いていた。以前、高野寛のライブに行った時もおばちゃんファンに囲まれて、知らない鳥の群れに迷い込んだ羽虫のような気持ちになったのをよく覚えている。この手(どの手?)の男性ミュージシャンのライブを観るときの宿命なのかもしれない。

あなたの好きな会話タイプはどれ? ココハス診断で無料自己分析!

 先日、映画館でアルバイトしていた当時の同僚たちに会う機会があったのだが、途中から完全に話に飽きてしまった。どうも、会話が上すべりしているように感じられたのである。

 というわけで、今日はあなたがより好む会話の傾向をタイプ別に分類します。こちらの図をご覧ください。f:id:kawaraberei:20261016185321p:image

 これは、同居人が発案した人間の性格分類図です。コンテンツ-コンセプトを横軸に、ユーモア-シリアスを縦軸としています。便宜上、頭文字をとってcocohus(ココハス)図と呼びます。

 ココハス図は、あらゆる人間を性格傾向を指し示すことができます。まずは、それぞれの指標を定義しておきましょう。

コンテンツ-コンセプト軸:どんなタイプの会話を好むかを表す軸。要するに、コンテンツの話が好きなのか、コンセプトの話が好きなのか、ということです。コンテンツの話とは、わかりやすいところでいえば好きな漫画やゲーム、映画、音楽の話です。面白い作品の情報を交換したり、どこが面白いかったかを話すことを好みます。一方、コンセプトの話を好む人は、同じ映画や音楽の話をするのでも、それがわたしや社会にとってどんな意味があるのか、わたしはその作品からなにを感じたのか、どう思ったのか、といったことを中心に話したがります。

 ユーモア-シリアス軸:より好む会話の展開の仕方を表す軸。性格としてユーモラスなのかシリアスなのかではありません。ユーモアの傾向がより強い場合は、話を横に広げることを好みます。あるテーマから別のテーマに、といった具合にです。たとえば、『オデュッセイア』→クリストファー・ノーラン→好きな監督→スティーブン・スピルバーグ→宇宙人の実在……といった具合にです。一方、シリアスの場合は、ひとつのテーマを掘り下げる方向に会話を進めます。クリスファー・ノーランの『オデュッセイア』についての会話であれば、『オデュッセイア』の話だけを深掘りしていきます。

 さて、懸命な読者であればお気づきのように、このような定義にすると、コンテンツ優位であればユーモアが優位に、コンセプト優位であればシリアスが優位になる可能性が高いです。でも、それはそういうものです。コンテンツの話が好きな人は次から次へと好きな作品の話をするでしょう。話を深掘りするのが好きな人は、「ある事象・作品に対してあなたはどう感じたのか」を突き詰めて話そうとします。よって、第二・第四象限に集まりやすいのではないか、という仮説を立てています。

 では、そういうわたしはどうなのか。以下の図をご覧ください。

f:id:kawaraberei:20261016193221p:image

 図の通り、わたしは、コンセプトの話にしか興味がないにもかかわらず、話を横方向にずらしていくことを好みます。なにも、わたしがより少ないものの側にいると示したいわけではありません。わたしはとにかく移り気で、かつ、「どう思ったのか、どう感じているのか」という話以外にはほとんど興味がないのです。 そもそも、このココハス図のような話自体、非常にコンセプト的な話ですよね。人が会話になにを求めるのかを図式化しているわけですから。

 映画館の同僚たちは、わたしから見るに、ほとんどが第二象限に属すると思われます。コンテンツの話を横に広げる話を好む人々です。最近仕事であったことの事実ベースでの話や、海外に行きたいよね、といった話が繰り広げられることになります。こういう場で、「へー! 海外で働きたいかー。どうしてそう思うの?」「結婚ねー。自分は籍は入れてないよ。結婚が男女間に限られていることがムカつくし、そもそも婚姻制度って要らなくない? なんで結婚したいの?」といった、シリアス・コンセプト寄りの話をすると、ちょっと浮きます。ちょっとで済めばいいですが、だいぶ浮くかもしれません。不快にさせる可能性すらあります。

 でも、わたしは人がコンテンツの話に終始しているとき、心の底でこう思ってしまうのです。

 おまえが生活の中でなにを感じて、なにを思って生きているかを、おまえの言葉で語れよ。

 ……などと書いてはみましたが、実際の会話というのは、折り合いが大事です。おたがいに妥協、譲歩しつつ、その場にいる全員ができるかぎり参加できるようにすることが、会話のマナーというべきものでしょう。

 というわけで、みなさんもぜひ、ココハス図を活用して他人との会話に見切りをつけてみてください。ちゃお!

「忙しい 充実 違い」

 電車内で前に立っている人のスマホ画面が背中越しに見えてしまった(見ようとしたわけではない)。Googleの検索画面で「忙しい 充実 違い」と調べていた。

 この人には、「忙しい」ことを「充実」に、あるいは「充実」していることを「忙しい」と、言い換えなければならない理由があるのだろうか。

 それとも、知り合いや旧友などと、なにかこの言葉をめぐるやりとりがあったのか。

「最近どうよ? 久しぶりに飲みにでも行く?」

「ごめん、最近いろいろ充実してて🙏 またの機会に!」

(充実……)

 そんなことを考えていたら、なんだか朝から悲しくなった。

オートチューンはあなたがたによりよい私をさずける

 退勤ラッシュの満員電車の中、有線の白いイヤホンを片耳ずつ分けっこする高校生カップルと思しきふたりの目の前で、わたしはT-PAINのアルバムRappa Ternt Sangaを聴きながら、ジェイス・クレイトンの『音楽はどこに根づくのか?——21世紀のデジタル・カルチャーとローカルをめぐる旅』を読んでいた。片耳で音楽を聴きながら会話するふたりの声は他の乗客の声や電車の走行音などとともに一律にノイズとしてキャンセルされ、わたしの耳にはほとんど届かない。1930年代から軍事・航空分野でパイロットのために研究され今では音楽のリスニングに欠かせない技術として根づいたこの機能のおかげで、わたしは10代の眩しさを直撃せずに済む。恋するふたりはいずれなにがしかの理由で通俗的に別れることになるだろう。進学、就職、冷める(醒める)、性格の不一致、価値観の不一致、信頼の損ない、病気、障害、あるいは死。どれも世界にあふれていて当人とそのまわりのほんの一部の人以外には驚きを与えない。あの日までは確かにそう言えた。そう、あらゆるものにオートチューンがかかるまでは。

 初めは人間関係の誤りを正すのにオートチューンが用いられた。どんなに真面目に生きていても、だれだってひとつやふたつの間違いはするものだ。そんなときにオートチューンは関係を正しい位置に置き直すことができた。それに気づいたのはトロントの精神分析医かつハイパーメディアアーティストを標榜する若手の研究グループだった。革新的だが研究倫理に反するとしてグループはカナダ精神医学会から解散を余儀なくされた。しかし、一度でも蒔かれ根づきはじめた種は風に乗ってどこまでも広がってゆくものだ。研究成果はカップルセラピーに革新をもたらす技法として闇セラピストたちの間で秘密裡に共有、転用され、フロイトやユングやラカンやアドラーが支配してきた業界の伝統を瞬く間に塗り替えてしまった。やがてカップルセラピーにおける常套の技法としてオートチューンによる人間関係の矯正が認知され始め、それを受けてカナダ精神医学会はやむをえず「むしろ倫理的であるといわざるをえない」との声明を出しこれを承認、心理学の教科書にもオートチューンが載ることになった。

 ここまではよかった。問題はここからである。オートチューンを人間関係の矯正ではなく常態的に使用する者が現れたのだ。エフェクトを最大化し、常に精神にオートチューンをかけた。するとまるでAIのように澱みなく思考し、話し、行動できるという効果を得られることがわかったのだ。人間でありながら、AIのように活動する。ヒト2.0というべきか。こぞって「私の精神にも常にオートチューンをかけてほしい」という者が現れた。精神科医とカウンセラーたちは初めはまともに取り合わなかったが、次第に許容しはじめた。自分たち自身、常に精神にオートチューンをかけることでその効用を認識しはじめたからだ。オートチューンは、人間社会における積年の問題として深く根づいていた「人間とは何か」という巨大で深淵なブラックホールを一挙に解体し、再構築したのである。そうしてあらゆる人間にオートチューンの使用が義務付けられた。だれもがだれかを憎むことがなくなった。嫉妬も怨恨も取り去られた。戦争は終わった。差別もなくなった。だれもが互いを労り、感謝し、どんなときも肯定的な反応を示した。おめでとう。おめでとう。ありがとう。ありがとう。いいですね。いいですね。提案します。提案します。オートチューンはあなたがたによりよい私をさずける*1。

*1 ジェイス・クレイトン(imdkm訳)『音楽はどこに根づくのか?——21世紀のデジタル・カルチャーとローカルをめぐる旅』フィルムアート社、2026年、41頁。

Politicization of Wacha×2

 ベンヤミンの複製芸術論を読んで以来、「政治の美学化」に対抗する「芸術の政治化」ってどういうことなんだ、どうもベンヤミンがそれを説明しているようには読めない……とずっと引っかかっていたのだが、玉城デニー氏が今回の沖縄知事選落選直後にカチャーシーを踊る映像を見て、急に腑に落ちた。芸術を政治の文脈に置き直すこと、いいかえれば、ある芸術にそもそも内在している政治性を明るみに出すこと。それを芸術の政治化といいうるのではないか。政治の美学化が、政治から政治性を覆い隠すことだとすれば、芸術の政治化は、芸術を通してそのベールを剥ぎとり、光を当てることである。

 デマと差別が無限に増殖するこの世界で、AIと人間は自らの毒に蝕まれまもなく共倒れするでしょう。その目前——文字通り目の前——で、できることはといえば、この夜を踊ること以外にない。この期に及んで、否むしろ、この期ゆえに踊る。わたしは玉城デニー氏のこれまでの政策をつぶさに検討はしておらず、この2期8年の県政の功罪を評価することはできないが、落選直後の玉城デニー氏の踊りはひとりの政治家を美学化するものではなく、カチャーシーという踊りの政治性を浮き彫りにしたと感じた。この身体を、この土地を、この現実のままならなさを、生きることの表現としての踊り。そこに希望を託すなんてナイーブすぎるかもしれない(し、結局芸術の政治化のいわんとするところをうまく言語化できていない)けど、デジタルな情報操作=理性の暴走に対抗するにはアナログな感性のままならなさを受け入れ生きることしかないような気もするし、それに「楽しい踊りに政治を持ちこむな」なんていう人もいるんだから(先日Xでマジでこの発言をしている人を見て面食らったのであった、「音楽に政治を持ちこむな」は聞き飽きていたけど)、いやいや、踊りはつねにすでに政治ですよ、と言っておかなければならない。軽薄でチャラくてわちゃわちゃしてて楽しくて、かつ、政治。それは両立するのです。「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」(佐々木中)

歯無しの話

 食後の歯磨きを終え歯ブラシを流水で洗うとき、食べかすが歯ブラシに挟まっていることに気づく。流水を当てつつ手で念入りに擦っても、ブラシの奥の方に入りこんでしまって取れない。流水の勢いを強くして、ごしごしごしごし、ブラシに指を押しつける。それでも取れない。埒があかないので、爪で引っ掻いて取ることを試みる。やっぱり取れない。ネギが取れない。

 そうこうしているうちに、ある疑念が浮かぶ。そもそも、口に入れる歯ブラシを、指や爪で洗うというのは、衛生的に問題ないのだろうか。歯磨きの直前に手を洗ったか? 思えば洗っていないような気がする。ただ漫然と歯磨きを始め、歯磨きが終わると歯ブラシを手で洗う。このルーティンの中に、手を洗う行為が含まれていない。やはり手は洗っていない。問題だ、問題がある! 

 この世に生を受けて30年弱、いまのいままで一度たりとも考えたことのなかった大問題。歯磨きの前には手を洗わなければならない。みんな歯ブラシの前にはちゃんと手を洗っているのだろうか。親やきょうだいや先生に教わったのだろうか。修学旅行中に友だちと「歯磨きの前に手を洗わないやつってキモいよね」なんて洗わないクラスメイトの影口を言ったのだろうか。そんなつまらないしかし衛生的に重要なことで人を傷つけてきたのだろうか。だったら教えてくれたらいいのに。「歯磨きの前には手を洗ったほうがいいよ」って。たったそれだけのことなのに。誰もそんなことは教えてくれなかった。わたしだけが知らなかったのか。それとも、わたしだけがこのことに気づいたのか? 思念はぐるぐると巡り、足元はがらがらと崩れ落ちる。衛生奈落の奥底で、ネギの挟まった歯ブラシと手を洗っていないわたしだけがぽつん、と向かい合う。「わたしたち、ふたりぼっちだね」

 その瞬間、暗闇に差しこむまばゆい光。ああそうだ、歯ブラシの歯ブラシが必要だ。歯ブラシの歯ブラシがあれば、この歯ブラシに挟まったネギを取ることができるはずだ。歯に挟まった食べかすは歯ブラシがすくいとる。歯ブラシに挟まった食べかすは歯ブラシの歯ブラシがすくいとればよいのだ。そんな単純なことだったのだ。ああ、いまここに歯ブラシの歯ブラシさえあれば。どうして歯ブラシの歯ブラシを持ち歩いていなかったのだろう。みんなにも伝えておかなくては。歯ブラシの歯ブラシが必要だ。歯ブラシの歯ブラシを買わなくてはならない。ちょっとそこのあなた、歯ブラシの歯ブラシは持ってますか? 持っていない! それはいけない。すぐにお買いなさい、それは必ずやあなたを守ることでしょう。光あれ。

 かくして、歯ブラシの歯ブラシ、サブラシは世界に夜明けを迎えたのである。