ぽちぽち軒

カツカレーのカツにはソースをかける派です

2025-01-14

 仕事で区立公園での動画撮影の許可どりをしようと思ったら、1時間の使用で17,000円かかるらしい。ヤクザかよ!!!! 撮影の許可申請をしたことがないので相場がわからないのだが、いやいや高杉晋作では? そんなものですか? だからもうゲリラでやるしかないっすね! って言ってたらみんなに止められた🤣 わたしはマジで言っているのですが。

 どういう理屈で17,000円という価格設定にしているのか教えてほしい。めちゃくちゃ広い公園の一角を拝借するのにそんなにお金がかかるって、いったい何を見込んでるの? 公園の一角を占拠することで不便を被る人のお気持ち代?

 で、他自治体についても調べてみることにした。すると港区は55,870円、新宿区は29,020円とのこと。あれ?

 …………。

 あーよくわかりました、これはマジの大規模な映画とかの撮影をするときも同じ金額なんですよね? てことはちょっとしたカメラ1台で10人くらいで集まってすみっこで撮影するのならゲリラでもいいってことですよね? 暗にそう書いてあると解釈していいですよね?

 社会というのはよくわからないものである。

 全部資本主義のせいだ!!!!!

 〜JR SHIHONSYUGI KIRAI〜

2025-01-13

 いつも通りかかる駅前のラーメン屋は評判がよく、そのうち行ってみたいなと思っている。看板に横浜家系と書かれているのでガッツリ系なんだろうけど、ガラス越しに見える店内はいつも清潔に保たれていて、店員さんが一所懸命清掃しているのを残業帰りに見たこともあり、どことなく好感をもっている。お店は町の中では大きな通りに面していて、いつもは店側の歩道を歩いているのだけれど、今日はたまたま車道を挟んだ反対側を歩いていた。反対側からラーメン屋をふと見ると、看板の上の窓に明朝体で大きく文章が書かれていることに気がついた。

「当店のスープは鶏ガラ、豚ガラ、そして人柄で仕上げております」

 こういう文句、なんだか嫌いじゃなくなったな。と思うのは、自分がお店に好感をもっているからなのか、それともただおじさんになりつつあるからなのか。自分も書きそうなんだよなー、とも思う。山田くん、座布団1枚もってきて! 笑点ちびまる子ちゃんサザエさんも、そういえばしばらく見てないや。

2025-01-12

 「行き先ボタンを押してください」と女性の冷たい機械音声が流れて、えっ、わたしの人生の行き先? と思ってヒヤリとしたのも束の間、エレベーターのボタンを押していなかったことに気づいた。1を押すとエレベーターは何事もなく下に動き始めて、上方向への重力を感じる。わたしの人生の行き先も、図式化すればこんなふうな選択式のボタンになっているかもしれなくて、陳腐な例えだけどそう思うと少しだけ人生が面白い。でも結局、1と4しか押すことはない。なぜなら私が住んでいるのは4階で、外に出るには1階に降りるしかないから。1階以外の4階より下の階は通りすぎるだけだし、4階より上の階に上がることはない。ボタンは用意されていても、結局わたしが押すボタンは決まっている。そう思うと、人生は少し味気ないですね?

2025-01-06

 年明けだ!! また働ける!!! っていうのを昨日は1日言ってましたね。言い聞かせていたら今日は割と調子がよい。言葉というのは恐ろしい。

 さて、毎年適当に10個くらいその年の目標みたいなものを掲げています。とりあえず今年も書いてみます。

社会福祉士試験合格

・「シリーズケアをひらく」全読み開始

・承認的なコミュニケーションの技法を磨く

・Penguin Stepsで市販の楽譜のない曲を演奏

・週1ランニングの習慣を身につける

・ピアノの練習をする

・ZINEをつくる

・早起きの習慣を獲得

・ハイパーピンボール理論〜気持ちいいのは誰だ編〜を実践

 まあこんなところでしょう!! 今年もよろしくお願いします。

2024-12-27

 さて、本年はブログ「ぽちぽち軒」にお越しいただきありがとうございました。立ち上げてからなんだかとりとめのない話ばかりを不定期に書いていますが、そんな話にコメントをくださる奇特な方もおられ、これを望外の喜びと言うのだな、と思うこともしばしばあります。本当に励みになります!

 来年はもう少し頻度をあげたいですね。まだ今年ももう少し書くかもしれないのですが、書かないかもしれないので、ひとまず年末のごあいさつ。というわけで最後に、いや最後じゃないかもしれないけど、またとりとめのない話を。

 2024年、人の話を聞くのが好きになったと思う。それと同じくらい、自分自身のことを話すのも好きになった。5、6年前は、そのやり方がわからなかった。完全に掴めたわけではないけれど、いまのほうが、わたしは明るくなったなと、自分で思う。

 うつ病の治療をしながら職場に来ている同期がいる。1ヶ月くらい前は、朝起きて職場に来られないという状態がつづき、無断欠勤もしていた。少し来られるようになってから、積極的に話を聞いたり、LINEをしてもらっている。どうしてそう思うのですか、こういうことを考えてみるのはどうでしょうか、と、その人自身が内面を掘り下げられるように質問して、話してもらっている。カウンセリングの本をよく読んで、承認的な態度や声のかけ方を学んで、実践している最中。

 実践していると、話を聞いている自分自身も少しずつ変わっているな、とわかる。なにかつらいことがある人に対して、「それはつらいですね」「そういうことがあったら、誰もがそのように感じると思います」という言葉が、自然と出てくるようになってきている。コミュニケーションの仕方が変わってきている。いままでだったら、なにかうまいことを言った方がいいんじゃないかとか思って、でも適切なことがいえない自分に、自分ってだめだなーと感じてしまっていたと思う。うまいことを言ったり、おもしろいことを言ったりする必要なんてないのにね。

 少しずつだけど、そうあるものをそうあるものとして受けとる、という思考のパターンができつつあるのだと思う。条件反射のように、承認的な構えができる。それは素朴に、よいことだと思う。だって、この世界は、わたしがだめだろうがなんだろうが、すでにここにあるのだから。それをジャッジしたり、捻ってみせたりするのではなく、そのままに受けとる。でも、いままでのほうがおもしろい人だったかも? いやいや、もう、おもしろくなくてもいいのね。おもしろかったり、正しかったりすることよりも、ずっと、受けいれることのほうが難しいのだと、いまはわかるから(そうは思っても、余計なこと、言ったりやったりしちゃうんだよなあ、これが。人間だもの、精進、精進)。

〜ここで一首〜

 50年後でも覚えているからね あなたと噛んだ鮭とばの味(31文字)

2024-12-10

 読むことは滋養、書くことは希望。というフレーズが、最寄駅からの帰り道、急にふってきた。滋養とは、すぐには役に立たないけれど、少しずつ身体の基礎となるようなもの。では希望とは? 希望とは、いまここから、いつかどこかのあなたに向けられたもの。ポエジー炸裂。キボンボボン。

 いま地球が爆発してしまっても光は届く あなたの星に(31文字)

2024-11-30

 ひぇ〜〜〜〜〜今月末〆切のレポートも無事提出。社会福祉士の資格取得のため通信に通っている。2ヶ月に一度、1000〜1200字のレポートを4本書かなくちゃいけない。仕事しながらだとなかなかキツい。ヘロヘロになりながらもレポートを書くのは好きなのでなんとかなっている。おかげでインターネットが遠のいているのだけど気にしない。

 最近思っていることとしては、わたしはふつうにお酒を飲んだりうまいもの食べたりする友だちがほしい。現在のわたしの基本的な食生活はこんな感じ。

 

朝:ゼリータイプのカロリーメイト

昼:コンビニのおにぎりと惣菜とサラダチキン(スティックタイプ)

夜:無印かスーパーのレトルトパウチカレーをレンチン

 

 現代のテクノロジーに生かされている。ナッシュとかのほうがマシか? でもなんか抵抗感あるのよね。料理は好きだけど21時とかから作り始める気は当然おきない。いまわたしはコンビニのうまいおにぎりに結構詳しいです(セブンのドライカレーおにぎりはめちゃくちゃうまい。福神漬けが入っていてすばらしい)。

 せっかくなので書いたレポートを1本置いておく。

なぜ人を助けなければならないのでしょうか? また、「助ける」ことを制度化している社会福祉の制度には、どのようなものがありますか?

 先日、地方自治体職員の知り合いからこんな話を聞いた。同僚が「生活保護の制度に納得がいっていないからワーカーにはなりたくない」と言っていた。そこには働かずに金銭給付を受ける受給者への揶揄が暗に含まれていた。それを聞いて知り合いは「自分が受給者になる可能性があることを考えると、生活保護制度があると安心して眠れます」と言ったという。頼もしい話である。

 人を助ける、といってもその内実は様々である。助ける主体と助けられる主体のバリエーションによって、いわばその助け方は、それぞれ異なる質と量によって展開されるといってよい。生活保護は国の制度であり、マクロレベルでは国家が助ける主体として生活困窮者の生存権を保障する。メゾ・ミクロレベルではケースワーカーNPO、地域住民による支援が展開される。こうしたミクロ~マクロレベルでの支援は、どのような関係性においても広く行われるのが望ましい。介護保険によるサービスを受けながら地域の活動に参加する高齢者、就労移行支援事業所で働きながらグループホームで生活する障害者、児童手当を受けつつファミリーサポート事業を利用する子育て世帯。社会保障社会福祉制度に関わること(フォーマルケア)から、日常の些細な出来事(インフォーマルケア)まで、様々な場面で人は人を助け、助けられている。またある時には助けられる主体だったものが、別の時には助ける主体になっている。「『支え合い』の関係においては、当事者の生き方に関する自己決定を支援者が支えるだけでなく、支援者自身も、『自分が変わる』契機を獲得して生き方を自己決定することとなり、相互的エンパワーメントが志向されていく」⑴というように。福祉社会学者の竹端寛の著作に倣って言えば、わたしたちは「ケアしケアされ、生きてい」⑵るのである。

 しかしなぜ、わたしたちは人を助けるのだろうか。牧師でありNPO法人抱僕の代表である奥田和志は、「困窮者を支援することに、理由が必要か」⑶とこの問い自体に疑問を付している。「『私は一人では生きていけない』。この事実にまず立つことが肝心なのだ」⑷と奥田は述べる。奥田にとって、人を助けることに「それが人間だからだ」「それが社会だからだ」⑸以上の理由は要らない。しかし、冒頭に挙げたエピソードのように公務員でさえ生活保護へのスティグマを内面化し、また強化するような発言を行うという現実がある。これは、菅義偉元首相が「まずは自分でやってみると『自助』を強調した」⑹ことに象徴されるように、自民党政権が推し進めてきた新自由主義的政策の名の下に自己責任論が助長されたことの結果ではないだろうか。わたしたちソーシャルワーカーは、安心して眠るための福祉政治=実践の必要性をこれまで以上に訴えていかなくてはならない。

 

⑴福祉社会学会編『福祉社会学ハンドブック——現代を読み解く98の論点』中央法規出版、2013年、59頁。

⑵竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』筑摩書房、2023年。

⑶奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ——人と社会をつなぐ』集英社、2013年、208頁。

⑷同上、209頁。

⑸同上、208頁。

⑹二木立「『自助・共助・公助』という分け方は適切なのか?——三助の変遷をたどって考える」一般社団法人市民セクター政策機構『社会運動 No.442 自助・共助・公助と生活クラブ』[Kindle版]ほんの木、2021年、位置No.990。