JR京浜東北線の大井町駅から電車に乗ったら、優先席に座っていた人が、一緒に乗ってきた多分インドかその周辺国の出身と思われる親子に席を譲った。子どもが座りたそうにしていると思ったのだろう。席を立って親子に座ることを促し、親子もそれに応じて座った。譲った人はシンプルな英語で話しかけ、「He's cute!」とその子の親にほほえみかけた。背丈から、子どもは5歳くらいに見えた。
次の駅である品川に着き、譲った人が降りようとすると、子どもが座ったままその人にハイタッチを求めた。その人はとても驚いた仕草をして、うれしそうにハイタッチした。それから3人は笑いあい、楽しげな様子で手を振って別れた。あたたかな光景だな、と思った。
そうして降りたその人が見えなくなった後、親子は手をつないでゆっくりと立ち上がり、まだ開いているドアから降りていった。その親子も品川が降車駅だったのである。そのあまりに見事なふるまいに、こんなことってあるのか、と思った。
席を譲った人は、親子がしばらく座るものと思って譲ったのかもしれない。それともひと駅だけでもいいから座ってほしいと思って譲ったのだろうか。いずれにせよ、席を譲られた親子はそうした親切心を無碍にしないよう気を遣ったのか、あえてその人が降りていくのを見届けてから、ゆっくりと降りていったのだった。いや、すぐ次の駅で降りることを言葉でうまく伝えられないと思って、仕方なく好意をそのままに受け取ったはいいものの、気まずく感じて後から席を立ったとも考えられる。あるいは、親しげな様子の譲った人をどこか不審に思い、時間差で降りることにしたのか。
席を譲った人にせよ譲られた親子にせよ、本当のところどう思っていたのかを確かめることはできない。確かめることはできないのだが、しかし少なくとも、そのコミュニケーションのありようは、おたがいがおたがいを不快にしないようにするためになされたように見えた。とりわけ、子どものハイタッチも含めて、親子のふるまいは見事だった。そして、すれちがう人びとのあいだのコミュニケーションは、積極的に良好な関係であることを望むのではなく、おたがいが不快にならないようにするだけで十分であると思ったし(その点でいえば譲った人はちょっとおせっかいだったかもしれないし、子どもはちょっとできすぎていた)、しかしそれはとても難しいことだとも思った。
わたしたちは、日々、同じこの世界を生きる人びととすれちがっている。街で、職場で、学校で、あるいはインターネットの中で。わたしではないだれかは当然、わたしとは異なる考えを持ち、わたしとは異なる生活をしている。だれかがどのようなことでよろこび、傷つくのかをわたしが完全に知ることはできない。それゆえ、わたしたちはだれもがだれかを傷つける加害性をもっているし、傷つけられる可能性にもさらされている。たまたま同じ電車に乗りあわせた、ほんの少しの時間だけで、だれかを傷つける、あるいはだれかに傷つけられるということは起こりうる。余計な一言を言ってしまったり、言われようもないことを言われたりする。そうした可傷性を抱えながらも、せめてできることはといえば、わたしではないだれかが、わたしの行為や態度でどう思うかを想像し、おたがいが不快にならない道筋を模索することだけである。想像は想像、模索は模索でしかなく、いくら考えても失敗する可能性はある。だからわたしにできることはその程度でしかないのであり、逆にいえば、それさえできれば十分なのだと思う。
たまたま乗りあわせた電車の中のたったひと区間、ほんの3分間だけ、それぞれが不快にならないためになされたコミュニケーションに、心をうたれた話でした。