ぽちぽち軒

カツカレーのカツにはソースをかける派です

2024-10-29

 20時から21時くらいに退社すると、隣のビルの前に人だかりができている。しばらくするとビルの中から大人に引率された子どもたちがぞろぞろと出てくる。塾帰りの子どもたちと、子どもを待つ保護者たち。就職してまもないころはなにかと思ったが、いまでは見なれた光景である。

 「はい、ちゃんと傘さす! 傘さす!」子どもたちをビルの入口まで引率してきた塾講師が、「塾講師的」としか言いようのない抑揚のついた調子で早足で飛び出す子どもたちを制する。「かっさー、さすっ!」みたいなイントネーション。「か」と「さ」のあいだに促音をつけ、また「さー」を伸ばすことでリズムを溜め、そのあとの「さすっ!」ですばやく一気に放つ。通りがかりに聞いていたわたしの耳にも言葉が残る。授業でもこうした話し方で教えているのだろう、と想像する。この感じを、わたしもよく知っている。

 小学生のころ、わたしはあの子どもたちと同じように塾に通っていた。6時ごろから始まり、遅いときにはやっぱり21時過ぎまで授業があった。学校から帰って、家で塾の宿題をやって、駅前の塾まで自転車で行く。母に車で送ってもらったこともあった。お腹が空くので、おやつ代をもらって塾あるビルの1階にあったセブンイレブンアメリカンドッグをよく買って授業の前や合間に食べた。

 6歳上の兄はすでに高校生で、小学生のころはわたしと同じ塾に通い、中学受験をして私大付属の中高一貫校に通っていた。偏差値でいうと60くらいの学校。第一志望はほかにあったのだが、滑り止めで受かった学校だった。一方わたしは算数がてんでダメで、兄と同じランクの学校を目指すことはできず、55くらいの学校を第一志望にしようか、と母から聞かされていた。自分で行きたい学校を考えるということはなく、母から勧められるがままに志望校を決めた。ただ、兄と同じくらいの偏差値の学校に自分は行けない、ということが嫌だった。母や先生に、兄よりできない、と思われることが嫌だった。

 おもえばわたしはいつも兄が敷いたレールの上を歩いていた。正確には、歩かされようとしていたし、歩こうとしていた。兄と同じ塾に通い、同じヤマハ音楽教室の先生にピアノを習い、同じテニススクールに通った。中学生になってから音楽を作り始めたのも、兄の影響だった。そして、いつも兄よりもうまくできなかった。ピアノのコンクールは1回を除きほぼすべて予選落ち、テニスはコーチから慰められるほどの下手さで2年続けて小学3年生のときに辞めた(兄はたしか小学校高学年まで続けた)。湧き上がる感情を歌にしていた兄と違い、自分の中に音楽で表現したいことはなにひとつなかった(いまなら表現したいことなんかなくてもよいと思っているが、当時は自分には兄のようには表現したいことがない、と考えていた)。唯一得意だった国語も、兄は授業でつくった川柳が区の作品賞を受賞し、わたしは自分でもあきれるほどひどい一句しかできなかった。

 だからわたしは兄よりもできたと思えることを自分のよりどころにしていったように思う。学費の安い国立の中高一貫校に受かったことで母は喜んでくれたし、よく言い争う兄と父に不満を募らせる母は、家族のなかでわたしだけが「よくわかってくれる」と言ったものだった。仕事で帰りの遅い父や自室にこもりがちな兄に対し、わたしは母の話の聞き役になった。わたしがなにか意見を言うということは、ほとんどなかった(たまに自分のやりたいことをストレートに伝えると、「子どもだからなにもわかっていない、いつか言うとおりにしてよかったと思うときがくる」などと言われた)。

 お金持ちとはいえないが経済的には恵まれた家庭で、自営業の母とサラリーマンの父の両親共働きで衣食住を不安に思ったことはなく、習い事もたくさんやった。ただ、兄と自分を比べ、母の言うことをきくいい子であったあの家で、わたしがわたしであることは、少しずつ殺されていった。いまふりかえるとそう思う。大学生のころに大友良英の音楽に出会ったこと、それから家を飛び出すきっかけを与えてくれたいまの同居人が、どんなときでも「あなたがどうしたいかを教えてほしい」と言い続けてくれたことが、いまの新しいわたしをかたちづくっている。

 塾から帰る子ども見ると、小さいころのことを思い出す。あの子どもたちが、まわりと自分を比べたり、だれかのために自分を押し殺したりすることなく、ただ自分のために生きていてさえくれたら、と思う。それから、子どもたちを待つ大人たちが、子どもの願いをまっすぐに聞いてくれたら、と思う。今年は日本が子どもの権利条約を批准してから30年だそうです。