福祉の窓口職場で働いていると、さまざまな人がやってくる。どこそこの病院の対応が悪かった、から始まる身の上話を1時間くらい聞くことがある。めちゃくちゃ激怒して怒鳴り声をあげる人もいる。90歳くらいのおばあちゃんから電話口で「死にたい」と言われたことは何度もある。生活に困っている、しかしどうしていいかわからない、という不満や不安がつのりにつのって、臨界点に達して相談に来る。
そういう話は、ただ聞くことしかできない。すぐに使える制度やサービスを紹介したり、具体的な改善策を示したりできることは、ほとんどない。うーん、うん、あー、そうですね、そうですよね、ねえ、などと、さまざまなバリエーションのあいづちをうって話を聞く。とにかく聞き続ける。たいていの場合は、どんなに怒っている人でも、ひととおり話し終えた、というタイミングがやってくる。そのタイミングを超えると、急に糸が切れたかのようにすーっと落ち着く。それで帰ってくれることもあるのだが、それでもなかなか帰らないときは、そのタイミングを逃してしまわないように、「いやー、ねえ、いろいろありますけれども、今日はもう遅いので帰りましょうか。また、何かあれば相談してくださいね」と言って、切り上げてもらう。とうぜん、その人の問題は解決していない。そもそも、ここで相談して解決できるようなものではなかったのだから。それでも、話を終えて帰っていく。帰ってもらう。これでいいのだろうか、とも思う。でも、来たときよりも、話し終えたときのほうが明らかに落ち着いている。だから、話を終えるということには、それだけでそれなりの効果があるのだと思う。
人に話を聞いてもらうこと、もしくは人の話を聞くこと、その相互行為には、どこか話の終わりをたがいに探りあっている感じがある。話しているほうも、聞いているほうも、どこに終わりがあるのかわからない。とめどもなく続くようにも思われる。しかし、話を聞くのがうまい人は、その終わりのタイミングをうまくつかまえる。そうすると、話していたほうも、ああ、今日はひとまずここが終わりだったんだ、と思うことができる。そういえば、デュオのフリーインプロヴィゼーションはこういう感覚なんじゃないかと思う。着地点を探りあっているあの感じ。と、わたしは話を終わらせることが苦手なので、この文章のまとめ方に困ってうっかりフリーインプロヴィゼーションまで話を広げた。こうなるとどこまでいくかわからない。こんな感じでいいことにしよ。さっさと洗濯しなきゃ。家の片付け全然進まん。書いてる場合じゃないんだわさわさび。あしたも仕事かー。今日はマイナス4金曜日(金曜日を基準にした曜日の捉え方)。おつかれサマンサタバサバ刺身、ユリイカエリエリレマサバ刺身。