ひぇ〜〜〜〜〜今月末〆切のレポートも無事提出。社会福祉士の資格取得のため通信に通っている。2ヶ月に一度、1000〜1200字のレポートを4本書かなくちゃいけない。仕事しながらだとなかなかキツい。ヘロヘロになりながらもレポートを書くのは好きなのでなんとかなっている。おかげでインターネットが遠のいているのだけど気にしない。
最近思っていることとしては、わたしはふつうにお酒を飲んだりうまいもの食べたりする友だちがほしい。現在のわたしの基本的な食生活はこんな感じ。
朝:ゼリータイプのカロリーメイト
昼:コンビニのおにぎりと惣菜とサラダチキン(スティックタイプ)
夜:無印かスーパーのレトルトパウチカレーをレンチン
現代のテクノロジーに生かされている。ナッシュとかのほうがマシか? でもなんか抵抗感あるのよね。料理は好きだけど21時とかから作り始める気は当然おきない。いまわたしはコンビニのうまいおにぎりに結構詳しいです(セブンのドライカレーおにぎりはめちゃくちゃうまい。福神漬けが入っていてすばらしい)。
せっかくなので書いたレポートを1本置いておく。
なぜ人を助けなければならないのでしょうか? また、「助ける」ことを制度化している社会福祉の制度には、どのようなものがありますか?
先日、地方自治体職員の知り合いからこんな話を聞いた。同僚が「生活保護の制度に納得がいっていないからワーカーにはなりたくない」と言っていた。そこには働かずに金銭給付を受ける受給者への揶揄が暗に含まれていた。それを聞いて知り合いは「自分が受給者になる可能性があることを考えると、生活保護制度があると安心して眠れます」と言ったという。頼もしい話である。
人を助ける、といってもその内実は様々である。助ける主体と助けられる主体のバリエーションによって、いわばその助け方は、それぞれ異なる質と量によって展開されるといってよい。生活保護は国の制度であり、マクロレベルでは国家が助ける主体として生活困窮者の生存権を保障する。メゾ・ミクロレベルではケースワーカーやNPO、地域住民による支援が展開される。こうしたミクロ~マクロレベルでの支援は、どのような関係性においても広く行われるのが望ましい。介護保険によるサービスを受けながら地域の活動に参加する高齢者、就労移行支援事業所で働きながらグループホームで生活する障害者、児童手当を受けつつファミリーサポート事業を利用する子育て世帯。社会保障・社会福祉制度に関わること(フォーマルケア)から、日常の些細な出来事(インフォーマルケア)まで、様々な場面で人は人を助け、助けられている。またある時には助けられる主体だったものが、別の時には助ける主体になっている。「『支え合い』の関係においては、当事者の生き方に関する自己決定を支援者が支えるだけでなく、支援者自身も、『自分が変わる』契機を獲得して生き方を自己決定することとなり、相互的エンパワーメントが志向されていく」⑴というように。福祉社会学者の竹端寛の著作に倣って言えば、わたしたちは「ケアしケアされ、生きてい」⑵るのである。
しかしなぜ、わたしたちは人を助けるのだろうか。牧師でありNPO法人抱僕の代表である奥田和志は、「困窮者を支援することに、理由が必要か」⑶とこの問い自体に疑問を付している。「『私は一人では生きていけない』。この事実にまず立つことが肝心なのだ」⑷と奥田は述べる。奥田にとって、人を助けることに「それが人間だからだ」「それが社会だからだ」⑸以上の理由は要らない。しかし、冒頭に挙げたエピソードのように公務員でさえ生活保護へのスティグマを内面化し、また強化するような発言を行うという現実がある。これは、菅義偉元首相が「まずは自分でやってみると『自助』を強調した」⑹ことに象徴されるように、自民党政権が推し進めてきた新自由主義的政策の名の下に自己責任論が助長されたことの結果ではないだろうか。わたしたちソーシャルワーカーは、安心して眠るための福祉政治=実践の必要性をこれまで以上に訴えていかなくてはならない。
⑴福祉社会学会編『福祉社会学ハンドブック——現代を読み解く98の論点』中央法規出版、2013年、59頁。
⑵竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』筑摩書房、2023年。
⑶奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ——人と社会をつなぐ』集英社、2013年、208頁。
⑷同上、209頁。
⑸同上、208頁。
⑹二木立「『自助・共助・公助』という分け方は適切なのか?——三助の変遷をたどって考える」一般社団法人市民セクター政策機構『社会運動 No.442 自助・共助・公助と生活クラブ』[Kindle版]ほんの木、2021年、位置No.990。