たしか中学生2年生のとき、小学校の同級生だった大村くんが交通事故で亡くなった。たいして仲良くなかった小学校の同級生から、突然「大村が死にました」とメールが来たのだった。書きぶりがあまりにぶっきらぼうだったので、あまりにひどい冗談だ、やっぱり仲良くなれないやつだな、と思ったのだけど、まもなく自分の母にもかつての保護者つながりで連絡が来て、本当のことだとわかった。自転車で横断歩道を渡っていたときに、信号無視した自動車にはねられたのだったと思う。お通夜や告別式には行かなかった。
わたしは学区域外の中学校に通っていたので、小学生のころの大村くんしか知らない。よく「問題行動」を起こす子どもだった。授業中に暴れて教室から出ていくことがたびたびあった。30分くらいするとケロッとした顔で廊下から教室を覗いて笑ったりしていたのだけど。だれかと喧嘩して目に大きな青あざをつくっていたこともあった。小学生だし、いわゆる不良ではないのだけれど、暴れるのでクラスメイトからはなんとなく避けられていた。わたしも避けているというほどではなかったけれど、すすんで仲良くしようとはしなかった。
でもたぶんわたしは大村くんに少し好かれていて、一度、帰りのホームルームの真っ最中に、離れた席から「今日一緒に帰ろー!!」と言われたことがあった。当然、みんなわたしのほうを向いた。先生もこちらを見た。わたしはどうしていいかわからず、でも内心「いやだな」と思った。そのとき、わたしはどんな顔をしていたのだろう。なにか答えたのか、答えなかったのか、まったく記憶にない。結局、その日は一緒に帰らなかったと思う。どうして帰らないことになったかは覚えていないけれど、この日に限らず、大村くんとふたりで一緒に帰った記憶はわたしにはない。
大学1年生くらいのとき、大村くんの母からわたしの母に連絡が入った。なんと、わたしから大村くんに年賀状が毎年届いているとのことだった。父があわてて年賀状の送付リストを確認すると、たしかにわたしの名前で大村くんに年賀状を送っていたのが確認できた。わたしの家では年賀状の送付リストを父が管理していて、年末になると父がリストを印刷し、家族それぞれそのリストをチェックしてだれに送るかを決めるのが恒例だった。めんどくさがりのわたしはそのリストをほとんどまともに確認せず、ずっと同じ人々に送り続けていた。でもよりにもよって、大村くんにも送り続けていたとは。青ざめた。無礼なんて言葉では足りないくらいのことをしたと思った。
連絡をもらった母によれば、大村くんの母は怒っておらず、むしろずっと送ってくれていてうれしかった、と言っていたとのことだったと思う。もしかしたら亡くなったことを知らないのかもしれないと、連絡をくれたとのことだったと思う。肝心なことなのに記憶が曖昧で、「だったと思う」と書くことしかできない。自分に都合よく解釈しているだけかもしれない。仮に大村くんの母が本当にそのように言ったのだったとしても、それは社交辞令でそう言った可能性もある。毎年不快な気持ちになっていたかもしれない。
いったいどんな気持ちで、亡くなった自分の息子に届く年賀状を、受け取っていたのだろう。確かめようと思えば確かめられる。たどっていけば、きっと大村くんの母やきょうだいと連絡をとることができる。でも、確かめる勇気も、それを確かめさせてほしいと申し出る図々しさもない。
大村くんはよくFCバルセロナのユニフォームTシャツを着ていた。冬でも半袖でいるような子だった。サッカーが好きだったけど、小学校のサッカークラブは途中で辞めたはずだ。サザンオールスターズが好きだった。エロティカセブンやマンピーのG★SPOTを歌う桑田佳祐の物真似をしていた。エロティカセブンなどと言って伝わるのがたぶんわたしくらいだけだったので、わたしはすこし好かれていたのかもしれない。兄がふたりいた。坊主頭で、わんぱくで、すぐにキレるけど愛嬌もあって、すこし鼻水をたらしているような少年だった。
なんとなく、夏になると大村くんのことを思いだす。サザンが好きだったからかもしれない。わたしがしたいやな思い出も含めて、まだ梅雨の明け切らない夏の湿気のなかに、大村くんはあのころのままいつまでもいるような気がする。