2024-04-21

 いちごを食べていたら、いちごを潰す用のスプーンのことを思い出した。すくう部分が平たく、小さな凹みがいくつもついているやつ。すくう部分の裏側でいちごを潰すことができるようになっている。丸みのある普通のスプーンで潰そうとするとうまく圧力がかからずいちごがつるっと滑ってしまうのだが、このスプーンだとそうなりにくい。皿の上に並べたいちごを潰して牛乳を入れ、仕上げに練乳をかける、という食べ方を幼いころによくやっていた。このスプーンはおばあちゃん家にあったやつだから、おばあちゃんが料理を作れなくなるにつれ、食べる頻度が減っていったんだろうな。おいしかったな。

 でも、今はいちごをそれほど頻繁には食べないから、いちごを潰すためだけに今更買うほどではないな、と思ってしまう。本来スプーンはなんでもすくえて汎用性の高いカトラリーなのに、いちごを潰すという限定的な機能を付加することで局所的な用途でしか使わせないように制限する、その妙な尖り方には良さを感じるのだけれども(卵かけご飯専用醤油やフィードバックノイズ専用ギターのような)。

 考えてみれば、いちごを潰して食べたいがために、このスプーンを考案した人がいたのだ。一体どういう経緯で開発することになったのだろう。いちごはそのまま食べると結構固いから幼児や高齢者でもおいしく食べられるように、という配慮の末、出たアイデアがこのスプーンだったのだろうか。それとも単純に、いちごは潰して食べるとうまいけど潰すためにすり鉢などを用意するのは手間なので食べながら簡単に潰せるようにしたい、というある種の横着さが生み出したのだろうか。

 試しに「いちご スプーン」で調べてみると、燕物産株式会社のホームページがヒットした。燕物産は新潟県燕三条にある有名なカトラリーメーカーである。ここが作っていたのか! どうやら「イチゴスプーン」という商品名らしい。

1960年(昭和35年)には、イチゴブームがありました。酸味が強いイチゴを潰して、牛乳と砂糖を入れる食べ方が流行りました。その時、イチゴを潰しやすくするために生まれたのが「イチゴスプーン」です。

最近人気が復活、ジャムを作るときスプーンを使って果実潰しや、ニンニクのすりつぶし、子どもの離乳食や介護職の固形物をつぶして食べやすくした使い方が広がっているようです。

www.tbcljp.com

 1960年のブームだったとは。どおりでおばあちゃん家で出てきたわけだ。

 上記ページのとおり、燕物産にはイチゴスプーン以外にも日本独自のさまざまなカトラリーがあるようだ。グレープフルーツスプーン、メロンスプーン、スパゲティフォーク、カツカレースプーンetc...。なお、燕物産だけでなく、こうしたオリジナルカトラリーをさまざまなメーカーが作っていたようだ。俗流日本文化論のようになってしまうが、こんなに細かい用途のカトラリーを作るところには、どこか日本らしさのようなものを感じてしまわなくもない。

 それにしても、かつてあった数々の専用カトラリーの存在を知ると、「棚には限りがあるし、フォークとかスプーンは1種類あれば十分でしょ」なんて思っていた自分は、なるべくものを少なくしたいというミニマルな価値規範を知らずのうちに身につけていたのだ……と気づく。何にでも使えるという汎用性よりも、これだけのために使うという有限化のほうに重きをおいていた時代があったのである。日々、相対化、相対化。

2024-04-18

 昼休憩で台湾料理を食べに行ったらお冷がこだわり酒場のレモンサワーのコップに入って出てきたので今日は良い日だなと思った。

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 このお店は地下1階にあり、1階にはインドカレー屋が構えている。テナント自体は両方カレー屋がもっているのか、ランチタイムにはカレー屋の店員が、オレンジ色のカレー屋のTシャツを着たまま手伝いで下に降りてくる。それだけでなく、カレー屋が満席だと地下を案内され、台湾料理店でカレーを頼むことができるようになる。時には、パッタイカオマンガイなんかも頼むことができる。台湾料理を頼むにしろカレーを頼むにしろタイ料理を頼むにしろ、支払いはまとめて1階だ。

 夜はカレー屋はカレー屋、台湾料理店は台湾料理店で、別々に営業している。支払いも別々になる。昼と夜とで台湾料理店のスタッフも変わっていて、昼は威勢のいいあんちゃんが切り盛りしているが、夜は台湾出身の明るいおばちゃんが切り盛りしている。

 わたしは夜にだけいるおばちゃんが結構好きで、初めて行ったとき、ルーロー飯を頼んだら、「はいルーロー飯ね、あとは!!?」と強めに聞かれた。ひとりで夕食をとるつもりで行ったので、ほかに頼む予定はなかったのだが、「あとは……」とメニューのページをぱらぱらめくると、「大根餅おすすめだよ! これ東京で一番おいしい大根餅!!」と言われたので大根餅を頼んだ。そしたら今度は「飲み物は!!!」ときたもんだからもう諦めて台湾ビールを頼むことにした。

 ご飯だけ食べてさっと帰るつもりだったんだけどな、と思いつつ、ビールを飲みながら待っていると大根餅が出てきた。一口含むと、なるほど、これはめちゃめちゃうまい……。東京で一番もあながち嘘ではないと思うくらいおいしかった。以前、渋谷で有名な台湾料理店に行って大根餅を食べたら、正直あまりおいしくなくて残念に思ったことがある(わたしはガチ中華と相性が悪い。日比谷などにある有名な行列のできる香港料理店もハマれなかった)。しかしそんな杞憂はどこ吹く風、おばちゃんのつくる大根餅はめちゃめちゃうまくて、気づけば「世界で一番だよ!!」とこれを食べさせてくれたおばちゃんに全力で感謝していた。

 そんなこんなで、わたしはこの押しの強いおばちゃんのおすすめを信用している。押しが強いと思っていた人柄も、やっぱりおいしいものはお客さんに強く薦めたいよな!! と今や好意的に捉えている。昼にいるあんちゃんは、筋骨隆々の運動部って感じでまだちょっと慣れないのだが。

2024-04-17

 母からのLINEがつらい。今日はこんなLINEが送られてきた。 

みんな、それぞれ仕事や家のことなど、頑張っているようで、何よりです😊💪

今日は〇〇お兄さんの誕生日です。
いつも温かい目で、(わたしの兄の名前)くん、(わたしの名前)くんの成長を見つめていてくれた〇〇おにいさんも、64歳になられましたね。

お忙しいと思いますが、メッセージを💗是非に😄

 どうでしょう、なかなかのつらさではないでしょうか。用件としては、伯父さんに誕生日祝いのメッセージを送るように、という内容。家族や親戚同士の結びつきを大事にする人で、だれかの誕生日や命日、正月などの催事には欠かさずこういったLINEが母から送られてくる。

 善良な人間だと思う。人の誕生日を祝う気持ちを持つことも良いことだと思う。とりわけ親戚なら尚のこと。

 しかしそのことは、母がわたしに伯父さんへメッセージを送らせる理由にはならない。母がするような仕方で、わたしはわたしの家族や親戚を大事にはできない。健康でいてほしいとは思う。でも、それだけだな、とも思う。

 母からLINEが送られてくると、プレッシャーを感じる。あなたも私と同じようにするべき、というプレッシャー。以前、母にそう伝えたことがある。強制されるようでつらい、と。母は、

「強制なんて言葉を使うなんて信じられない」

「そんなのはプレッシャーじゃない」

「亡くなったおじいちゃんはみんな仲良くが一番大切だと言っていたのに」

「冷たい人間になってしまった」

「昔の〇〇くんに戻って」

「そんな態度では良い仕事はできない」

「そんなことを言うなんて、悲しいです」

と完全にわたしの気持ちを否定した上で、感情に訴えてきたのだった。

 ああ、書いていて疲れてしまった。これしか書いていないのに。他人をコントロールしようとする人だとわかっていても、自分の生き方や気持ちが間違っていると否定されるのは、なかなかつらい。そんなの些細なことじゃん、もっと大変な親はたくさんいて……なんて決して言わないでほしい。確かに恵まれていた。教育を受けさせてもらえたし、おいしいごはんを食べ、安全な家で眠ることができた。23歳ごろまで、わたしはとても良い子だった。でも、良い子であることへの圧力は、わたしがわたしらしく生きる権利を、ゆっくりとナイフを突き刺すように、しずかに殺していったのだと思う。

 その輪には入れないし、入るつもりもない。とにかく静かにしていてほしい。今は、それだけ。

2024-04-16

 コメダ珈琲はちっちゃいパックの豆が無料でもらえてうれしい。チェーンのカフェでお通し(と呼んでいいのかわからないが)が出てくるのはコメダ珈琲くらいだと思う。この豆があることによって、わたしのなかでのコメダの株はかなり高い。高校生のころは、仲良くしていた予備校の現代文講師の影響でルノアール派を自称していた。ルノアールのいいところは、ほぼ絶対に追い出されないところと一度飲み物を頼めば無限にお茶が注がれるところ。そういうオペレーションになっている、とルノアールでバイトしていた同級生に聞いたことがある。とはいえ飲み物一杯あたりの値段が高いので、実際そんなに行ったことはなかった。コメダは丸みのある瓶の容器に飲み物が入っているのも好きだ。見た目がかわいい。これももらえたらいいのにな、と思うのだが洗って再利用されているっぽいのでそういうわけにはいかない。売ってたら買いたいな。

 パスタのチェーンだと、すぱじろうが好きだ。ここも無料のお通しがあり、湯呑に入った出汁のスープが出てくる(貧乏くさい話なってきたな)。でも好きな理由はそれだけではなく、すぱじろうはナスの入っているトマト系のパスタ(名前は忘れた)がめちゃめちゃうまい。特に、大きめに切られたナスがうまい。他の具材やソースの旨みを吸い込んでいて、ジューシーでとにかくうまい。これを食べる前は自分がナス好きだと思っていなかったが、このうまさに気づいて以来家でナスを調理する時も大きめにカットして色んなものの旨みを吸い込ませるようにしている。でもすぱじろうのナスが今のところ一番うまいんだよな。敵わない。

2024-04-12

 今日はいつものそば屋でカレー丼を頼んでみた。いつもの、というのは職場の近くにあってお昼に月2くらいで行っているから。回転率がめちゃめちゃいいので多少混んでいてもすぐに食べることができ、重宝している。そば屋も中華みたいにチェーンのそば屋と町のそば屋とガチのそば屋がありますよね。このお店はチェーンと町の中間くらいの雰囲気。お昼どきに働いているおばちゃんの威勢のいい声にうながされて次々と入れ替わっていくお客さんの流れはいつ見ても飽きない。いい店です。

 で、いつもはコロッケそばやかき揚げそばを頼むのだが(コロッケそばとかかき揚げそばって揚げ物をそばにインするか別皿にしてもらうかで好みが分かれますよね。わたしは絶対インそば派だったのですが、インそばしたらコロッケにソースかけるのはおかしいよなと気づいて以来、別皿ありなんじゃないか派として生きています)、先日行ったとき丼ものを食べているお客さんを見て、「その手があったか!」と改めて言うまでもない事実に改めて気づき、「次行くときは絶対丼もの頼むぞ……」という気持ちを募らせ念願叶ってついに券売機の前に立ったのだった。

 カツ丼にしようかどうしようか、とひとしきり悩んだのち、えいやっとボタンを押して頼んだカレー丼は、これぞそば屋のカレー丼! って感じのねっとりしたルウ(「ルー」ではない、この質感は紛れもなく「ルウ」だ)がごはんの上いっぱいにかけられており、ごはんへのルウの絡みつきかたときたら尋常ではなく、丼自体は少々小ぶりながら大変満足だった。そば屋のカレーって出汁(?)がきいてておいしいんですよね。カレーライスではなくカレー丼と称するところにもどこか心くすぐるポイントがある。ライスじゃねえ、丼なんだ、という気概。堂々としていてちょっとやそっとではへこたれそうにない。

 残業を終えた帰り道、23時をまわっても営業してくれるのは松屋くらいなので、夕食に牛丼並盛と豚汁のセットを食べた。食後には甘いものがほしくなったのでセブンでシュークリームを買って歩きながら食べた。わたしの人生に必要なのは味噌汁を豚汁にできる程度の財布の余裕といつでも食べられるシュークリームだな、と思ったのだった。

2024-04-11

 ホームの反対側から大きく手を振る人を見ると、あの人は良い人だな、と思う。当然、実際に良い人かどうかは話してみないとわからないのだが(もしかしたらとんでもないヘイターかもしれないし、そもそも良い人のイメージがおぼろげだ)。しかし自分が同じ状況になったときを想像してみると、気恥ずかしさで小さく手を振るか、もしくは知人がいることに気づいていない素振りさえしそうなので、大きく手を振れる人に抱く羨望が「良い人」という印象に変換されて出力されているのだろう。

 以前、日本舞踊を習っているという人がホームの反対側から手を振ってくれたのを見たとき、そのフォームがあまりにもしなやかで美しく、「所作」は日常生活の隅々まで行き渡るものなのだなと深く納得した。自分にはそんなふうに手を振り返すことはできないが、他人が大きく手を振るさまをハタから見ているだけでもなんだか楽しくなってくるのだから、手は大きく振り返したほうが誰にとっても良いのだと思う。「バカのふりをして」という常套句は好きではないが、自分さえつらくなければ「明るい人間のふりをして」生きるのは良いことなんじゃないだろうか。誰も他人の本当の気持ちを知ることはできないのだから、明るくふるまえる人間はすでに明るい人間だ。

 駅の改札に入ると、エスカレーターを降りる学生が改札外に向かって大きく手を振っていた。一定の速度でスムーズに斜め右下方向へと移動しながら去っていくその姿は、改札外にいたその学生の知り合いを少し笑わせたことだろう。ひとりとぼとぼと退勤に急ぐ身としては、帰り道に手を振るだれかのいるその学生が羨ましく感じた。

2024-04-10

 先日、職場の同僚と4人でお花見に行った。お花見に行くのは久しぶりだった。実家住まいのころは毎年親に連れ出されて仕方なしに行っていたが、自らすすんで行ったのは初めてだったと思う。

 一緒に行った同僚は、同期が2人と同期のひとりの先輩にあたる人が1人だった。同期の2人は友だちと言えるくらいには親しみを感じている人たちだ(相手がどう思っているかはもちろんわからない)。先輩は職場の階段ですれ違う以外で話すのはほぼ初めてだった。

 戸越銀座駅から散歩して五反田駅を過ぎ、目黒川沿いに着くと、例年より少し開花の遅れた桜はちょうど満開だった。レジャーシートを敷いた人たちがコンビニや屋台で買ったお酒と食べ物を囲みながら楽しそうに話していた。鬼ごっこに夢中の子どもたちの脇を通り過ぎながら4人で座れそうな場所を探す。茶色のベンチがちょうど空いていたので、そこで待機する班と買い出しに行く班に分かれた。わたしは少し話したかったので「待ちます!」と言って同期の1人と腰を下ろした。

 話していると、買い出し班がたこ焼きとフライドポテトを買ってきてくれた。そこで買い出し班の1人と交代して、もう1人の同期と2人でお酒を買いに行った。屋台のキューバサンド店が目にとまり、モヒートを注文することにした。メニューを見ると、桜の塩漬け入りのモヒートがあるらしい。すっかり桜に浮かれていたわたしたちはアルコール入りとノンアルをひとつずつを買った。キューバ出身と思われる店員さんが、「15,000円です!」と言った。無論、レジの電子表示には1,500円と書いてあった。鉄板ネタなのだろう。透明なコップに入った桜モヒートを受け取り去ろうとすると、その店員さんが「待って! ストロー忘れてるよ!」と呼び止めた。「ストローがないとモヒートじゃないよ!」

 今思うとそれも冗談だったのかもしれないが、「そうなんだ〜」と2人で納得した。ストローは赤色だった。ベンチに戻って飲んでみると、桜モヒートはその爽やかな見た目と裏腹、喉がキュッとなるくらい強烈な塩味で驚いた。正直、ストレートにおいしい、とは言えない感じの味。でもそのとき、ふと「あ、今わたしは、自由なんだな」と思った。行きたいところに行き、話したい人と話し、食べたいものを食べる。それ以上に望むことってたぶんない。今後は春が来るたび、友だちを誘って外に出かけよう。キューバサンドの屋台、来年もあるといいな。