同居人とペアで指輪を買った。結婚指輪の値段がする指輪。結婚はしていない。
指輪をつけて職場に行くと、何人かの同僚から指輪について話しかけられた。買いたての指輪はピカピカしている。めざとくなくても気づく眩しさだと思う。同僚がなぜか小声で言う。
「〇〇さん、その指輪って……」
「買いました。でも結婚はしてないです」
「これからってこと?」
「いや、ふたりとも結婚しないことで意見が一致してて」
「そういうのもね、あるのよねえ。でも、おめでとうでいいってこと? おめでとうって言っていいってこと?」
だいたい、こんな感じの会話である。左手の薬指に指輪をはめることは、祝ってしかるべきことだとされている、ということをひしひしと感じる。異性間限定のロマンティックラブイデオロギー。
指輪を買うことにしたのは、同居人に説得されたからだった。左手の薬指に指輪をはめることは、パートナーがいることの明示になる。もし余計な詮索をされそうになっても、これを見せれば一目瞭然。いわば水戸黄門の紋所である。わたしは現行の婚姻制度は廃止すべきだと思っている(婚姻制度は家父長制を温存する)ので、左手の薬指に指輪をはめたくなかった(婚姻関係にある二者が身につけるもの、という社会通念があまりにでかすぎるのがいけない)のだが、同居人の意見はもっともであり、実生活上便利なのですることにした、というのが理由のひとつ(それに、婚姻制度に反対しているけど左手の薬指に指輪をする人がいたっていいはずだ、と思い直した)。
もうひとつの理由は、同居人と生活する覚悟(なんて書くと大袈裟だが)ができたからである。同居人はかなり衝動性が強く、かつ急な予定変更に弱い。今と決めたことは今やらないと絶対に気がすまないので、それを他人のペースで乱されると激怒する(加えて言葉の使用に長けているので人の心をグサグサとナイフで刺すような言葉をストレスがおさまるまで発しつづける。当人もこれを「発作」と呼んでいる)。一方のわたしは、超のんびりマイペースかつ予定が埋まっているとげんなりする性格である。要はふたりとも柔軟さに欠けており、わたしは同居人に振りまわされていると感じるたびに精神のキャパがオーバーしてしまい、もうマジで無理かも、とたびたび思っては心のシャッターをおろしていた。
しかしはじめのうちはわたしが残業することにブチ切れていた同居人も(わたしが残業をすると家事負担が増える&一緒にやろうと思っていたことができなくなる=予定が崩れるため)、少しずつ自分なりのやり方でストレスの鎮め方を身につけてきている。わたしが遅いときは自分の分だけうどんを茹でてすする、など。そういう日の食事はそれぞれがそれぞれの分を用意する。たいていの物事はそういう具体的な行動によって解決される。自分を変えるのは容易ではなく、すごいことだと思う。
わたしは同居人をユーモアにあふれた人だと思う。同居人がノリのいい音楽に合わせて変なダンスを踊っていると、わたしもそれをマネて変なダンスを踊る。それを見て笑いあったりする。洗濯物を干しているとき、パンツを両手で持って頭上に高く掲げてポーズを決めたりする。そのポーズを競いあったりする。たぶんもうだれも覚えていないSNSの投稿をずっとネタにして言いあっている。何回言っても面白いので、もう1年くらいなにかにつけて言っている。はたからみたらなんのこっちゃわからない、とても狭くて、閉じたやりとり。 そういう、いつか失われてしまうことを思うとかなしくなるような行為のてざわりによって、わたしたちは少しずつ少しずつ、やわらかくなっているのだと思う。そうしてあなたとつみかさねてきた記憶と、そうした記憶をあなたとつみかさねていくことを、わたしは大切にしていきたいと思う。それが指輪を買ったもうひとつの理由である。これからもよろしくね。