2024-04-23

 LINEを開くと誕生日が近い「友だち」を知らされた。プロフィールに誕生日を設定していると、ほかの「友だち」に知らせてくれる、ありがたいんだか迷惑なんだかわからない機能。LINEを開くたび、あと数日か……と思う。そうしてそのうち誕生日当日になる。当人のアイコンには誕生日であることを示す三角帽子が付いている。先のばしにしていた選択に答えを出さなくてはいけない焦燥感に苛まれる。

 問題は誕生日の「友だち」にメッセージを送るか送るまいか、である。親しい友だちには送ればいいが、そんなに親しくない「友だち」に送ったら何か思われるんじゃなかろうか。それとも、ここまで強調されているのに無視するほうが薄情だろうか。そもそも周知されることをわかった上で誕生日を設定しているのだ。それは送っていいことの紛れもない証左と受け取っていいのだろうか……。

 相手がどう思うかを考えているようで、その実自分がどう思われるかを考えてしまっているということがある。誕生日メッセージを送るか送らないかはそのパターンのひとつである。送るわたしは、あるいは送らないわたしは、相手に何を思われるんだろうか、という自意識である。もちろん、そのように悩むことが悪いわけではない。相手と自分の関係に権力勾配がある場合、よかれと思ってやった行為が相手を抑圧することは多々ある。ちょっとしたことで贈与は簡単に暴力になる。そうならないようにするためには、自分の暴力性を自覚しておく必要がある。それは相手に自分がどう思われるかを考えることにほかならない。むろん、完璧に自覚することはできないのだけれども。

 その上で、送りたければ送る。送りたくなければ送らない。加えてほかの人に送ることを強要しない。それだけでよい。それだけでよいはずなのだが、そうすることが結構むずかしいのは、他人が自分と同じようであってほしいという気持ちがあるからかもしれない。こっちが送ったからといって送りかえしてもらわなくてもよいとわたしが思っていても、送られた側は、送りかえさないといけないのではないか、と考えたりする。そういう暗黙の了解の読みあいみたいなことが行われている。

 そんな悩みが次第にどうでもよくなってきたので、最近は自分が送りたければ送る、それ以外のことはあまり考えなくなった。しかもメッセージだけじゃなくて、500円くらいのミスドとかのチケットもつけて送る。自分がミスドのチケットをもらったらうれしいのでそうしている。自分勝手極まりないが、そもそも頼まれてもいないのに他人の誕生日を祝おうとすること自体が自分勝手なことではないか。結局、何をやっても多かれ少なかれ非難されるのだから、自分がどうしたいかを見極めて、そうするだけなんだと思う。デヴィッド・ボウイもそう言っていたんだから、そうなんだろう。