断章、書くことについて
・わたしはよく「わたしたち」ということばを使う。「わたしたち」ということばで、この世界にいるすべての人をあらわしたいと思っている。しかしときどき、この「わたしたち」には含まれていない人々がいることを思う。それはわたしが「わたしたち」と言う・書くときに、わたしが想定できなかった人々のことである。また、この「わたしたち」のなかに含まれるのを拒む人々がいるかもしれないということを思う。あなたとは、いや、おまえとは、なにがあっても一緒にされるなんてごめんだ、という線引きを、相手から提示してくる可能性がある。それでもそのときわたしは、「わたしたち」ということばを、この世界にいるだれもを包含する仕方で、発することができるのだろうか?
・書くことは暴力だと思う。とりわけ書くことによってなにかを訴えることは。その力は人や社会を動かしてしまう。だから、暴力ではない書き方を、探さなくてはいけない。
・どんな病気にも効く万能薬はない。同様に、だれにも届くことばはない。だから、無数の書き手による無数の文章がある。そうあることがよいことだと思う。誤った薬を処方すればその人の症状は悪化するが、その薬はほかのだれかが生きていくうえで必要になるものだ。しかし、薬がそもそもだれかの生を虐げるということはないだろうか。服用するにせよしないにせよ、その薬があることによって、虐げられてしまう生というものもあるのではないか。その薬が、一方ではだれかの生を支えることになっていたとしても、ほかのだれかの生を虐げて、その薬をつくりつづけることは、ほんとうによいことなのだろうか。ほかのだれかの生を虐げない、差別しない、排除しない、別の、代わりの薬が、必要なのだとやっぱり思う。それとも、そもそも薬を必要としない生を、めざすべきなのだろうか。でも、わたしたちはいつもだれもが傷つく可能性にさらされているのだし、だれかを傷つける可能性も秘めているのだし、その可能性をなくすことも、また傷を見なかったことにすることも、ほんとうにはできないのだから、そのときのために、傷を見るための薬が、必要なのだと思う。その傷をちゃんと見るために、書き手と書くことと書かれたものが、必要なのだとわたしは思う。
・拳を握って突きあげるのは、その拳をひらき、おろすためである。